重衡と重盛の子供たちの関係
イケメン?
維盛とは二歳違いです。なので兄貴分という感じでしょうか。(もう少し若々しく描いても良かったかもしれないですね)
「艶かしいほど清らか」と記録が残る
武に優れた重衡
実際に武勲では大きな差があります
大きな戦で平家側が勝利した戦には殆ど重衡が関わっています。反面、大きな戦で敗北したものは一の谷合戦くらいです
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美濃合戦事注文風聞、雖不知実説注之、三月十日、於墨俣河合戦、討取謀反輩首目六、頭の亮(重衡)方 二百三人内、生取八人、越前の守(通盛)方 六十七人、権の亮(維盛)方 七十四人、薩摩の守(忠度)方 廿一人参河の守(知度)方 八人内、有自分、讃岐の守(維時)方、七人、同、已上三百九十人内、大将軍四人、和泉の太郎重満(頭の亮方盛久自分)、同弟高田の太郎(同方盛久郎等分)、
十郎蔵人息字二郎(薩摩の守分)、同蔵人弟悪禅師(頭の亮方盛綱手)
この外負手河ニ逃げ入る者三百余人。吉記治承5年3月13日条より
教養に優れた重衡
それ以外にも様々な楽器を操り、勅撰歌人でもあります
- 維盛にとっては武の師
- 清経にとっては笛の友
- 資盛にとっては恋のライバル?!
囚われの経緯
乳母子
一の谷の戦いで平家軍が全軍総崩れとなる中、馬を走らせて須磨(現神戸市須磨区)まで逃げた重衡。そこで運悪く乗っていた馬が矢に射られてしまう
乗る馬がなくなった重衡は、その場で自害しようとしますが、源氏方に捕まってしまいます。
平家物語では、宗盛の乳母子藤原景経が、宗盛を庇って壇ノ浦で討ち死。知盛は乳母子伊賀平内左衛門家長と一緒に入水する。同じ同母兄弟でありながら、乳母子に裏切られる事で重衡の悲劇性が増します
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山陽電車「須磨寺駅」前には「平重衡とらわれの松跡」が史跡としてあります。
そこに重衡が詠んだという和歌が刻まれています。
ささほろや 波ここもとに 打ちすぎて 須磨でのむこそ 濁り酒なれ(重衡)
重衡被斬
三種の神器と交換
鎌倉にて
©「平家物語」製作委員会
囚われて、鎌倉に護送された平重衡ですが、平家物語でも吾妻鏡でも大変立派な態度であったと記述されています
藤原輔子:大納言佐
生け捕られた重衡が口頭で、伝言を伝えます
都落ちした流浪の旅で、あなたと私は一緒にいる事でお互いに心の支えでした。私が囚われの身となって、離れ離れになって、とても悲しい出来事です。でも夫婦の契りは朽ちないと言います。生まれ変わっても必ず逢いまみえましょう
藤原輔子は壇ノ浦で入水しようとしますが、矢が着物を射て動けなくなり、身柄を確保されます
日野にて再会
重衡は護送される途中、日野(現京都市伏見区)にて妻の藤原輔子と今生の別れをします。
堰かねて 涙のかかる 唐衣 のちの形見に 脱ぎぞかへぬる(重衡)
脱ぎかふる 衣も今は なにかせむ 今日をかぎりの 形見とおもへば(藤原輔子)
重衡が処刑されるのは宗盛より後でした
その後の藤原輔子
藤原輔子はその後、出家して大原寂光院にて建礼門院(平徳子)に仕えます。後白河法皇と建礼門院(平徳子)が出逢う時に一緒にいるのが藤原輔子です。
©「平家物語」製作委員会
室町時代に成立した平家男子のファンブック、「平家花ぞろへ」
「ことさら人のためおもひやりふかく、こころさまなつかしくなさけしくもてなし、みめもれゐの人もとゆかりにや、いとよくて、打ちわらひ給へけるなどこそ、ことにみまほしけれ。ぼたんの花の 匂ひおほく 咲き乱れたる 朝ぼらけに 初ほととぎすの 一こゑ をとづれたる 程とや聞えむ」(平家花ぞろへ)
(気さくで、心配り気遣いが出来て、見た目も飛びぬけてイケメンで、特に笑った顔に見とれてしまう。咲き乱れる牡丹の花の香りのする朝に、ほととぎすの鳴く声を聞いた時みたいな爽やかなイメージの男子)