第4回は、松平(後の徳川)と織田の同盟、『清須同盟』を主に描かれました。今回は、織田信長と織田勢の登場人物についての解説・考察中心です。因みに”清須”と、”清洲”は同じ意味で両方正しいですが、作品に合わせて”清須”と表記します。
織田信長の下克上
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家督相続時の尾張の情勢
「どうする家康」では1562年ですが、信長が織田家の家督を相続(1552年)してから、尾張を統一する過程を整理しましょう。
守護 斯波氏 ┏━━━┻━━┓ 守護代 清須織田家 岩倉織田家 ┃ 配下 清須三奉行
守護 | 斯波義統 |
---|---|
守護代(守護又代) | 織田伊勢守家(岩倉織田家)、織田大和守家(清須織田家) |
清須三奉行 | 因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家 |
織田信長の家は弾正忠家になります。尚、家督を相続した時の居城は那古野城です。
織田伊勢守家と織田大和守家は、尾張を南北に分割してそれぞれを縄張りにしていました。
概ね赤い線より北側が織田伊勢守家(岩倉織田家)の勢力範囲、南側が織田大和守家(清須織田家)の勢力範囲です

そして、尾張の南半分を治めていた織田大和守家(清須織田家)の配下に、織田信長の弾正忠家がありました。
- 室町幕府により任命された守護大名が、幕府の統治から独立した戦国大名
- 守護の家臣や土着の有力者「国人」が下克上でなり上がった戦国大名
1のパターンが今川義元。2のパターンが織田信長になります。
弾正忠家が勢力を拡大した背景
実際、そうですね。その経緯を辿ると以下のようになります
- 今川方の伊勢宗瑞 (北条早雲) が斯波氏から遠江を奪う
- 遠江遠征を巡って尾張で内紛。斯波氏が遠征に反対する守護代の織田達定を討伐(織田守護代家弱体化)
- 斯波義達が今川に大敗して、遠江遠征に失敗。引退に追い込まれて斯波氏が弱体化。斯波義統が後継守護になるが、織田大和守家(清須織田家)の傀儡的存在にされる
- 守護代、守護の弱体化で尾張に権力の空白が出来る。その権力の空白を縫うように津島経済を掌握する織田弾正忠家が台頭する
- 織田弾正忠家に対抗する為、織田大和守家(清須織田家)が今川との連携を模索。今川を仇敵と考える守護斯波義統と織田大和守家(清須織田家)との対立が深まる。斯波義統が織田弾正忠家に接近する
まず、駿河の今川が遠江に侵攻。これに対する対処で斯波守護家と織田守護代家が対立して、織田守護代家が敗れて、弱体化。
そして、遠江に遠征した斯波守護家は、今川に敗れて弱体化。今川は遠江、三河も勢力下にする一方、尾張守護の斯波氏は尾張での力も失う。その尾張の権力の空白に勢力を伸ばしたのが、織田守護代家の配下だった織田弾正忠家という流れになります。
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信長の下克上
下克上型の戦国大名の場合、主君を倒すという弑逆をしながら、人々の支持を集めるという矛盾する難題をこなす必要があります。信長は、主君や身分が上の者を討つ大義名分を巧みに得て事を成し遂げていきます
- 1554年8月主家織田大和守家(清須織田家)を討つ斯波義統が織田大和守家(清須織田家)の信長謀殺計画を信長に伝える。密告に怒った織田大和守家(清須織田家)が尾張守護の斯波義統を弑逆。義統の遺児斯波義銀を信長が保護する。守護の敵討ちと言う名目を得た信長が主筋にあたる織田大和守家(清須織田家)を滅亡させる。信長は居城を清須城に移す。尚、斯波義銀は名目上の尾張守護となる
- 1556年4月斎藤道三の死信長の後ろ盾であった義父斎藤道三が斎藤義龍に討ち取られる
- 1556年8月弟信行の挙兵弟の信行が家老の柴田勝家などに擁立されて謀反。これを破る。
- 1558年7月織田伊勢守家(岩倉織田家)を討つ尾張の北半分を支配する織田伊勢守家(岩倉織田家)を浮野の戦いで破る。翌年、岩倉城陥落。事実上の尾張統一を成し遂げる
以降、1560年に桶狭間の戦い、1563年に居城を清須から小牧山に移す、となります。
織田大和守家(清須織田家)が尾張守護の斯波義統を弑逆したのは、信長の謀略の匂いがプンプンしますね。相手に先に下克上をさせて、主筋を討伐する大義名分を得る。
しかも、織田大和守家(清須織田家)が尾張守護の斯波義統を弑逆した6日後には、「弔い合戦」を称して清須に攻め込んでいます。これはあまりにも早いので、最初から仕組んでいた可能性が高いでしょう。
大義名分を得るために、傀儡を利用するやり方ですね。しかも、両者とも当初は信長とは友好的でした。
そう考えると、本能寺の変の頃に、信長と朝廷が対立していたのか、友好関係にあったのかという議論はあまり意味の無い議論かも知れませんね。斯波義銀にせよ、足利義昭にせよ利用している最中は信長とは友好的だったわけですから。
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「桶狭間の戦い」は罠だったのか?
大高城の兵糧入れはワザと成功させた?
大高城への兵糧入れを自らの武勲と誇る家康に対して、「あれは織田の罠だった」という設定になっているようです
でもないですね。大高城が尾張に深く入った位置にあること、織田が大高城周辺に多くの砦を築いて、今川の兵力が分散していた事などが要因で、土地勘の無い地に且つ兵力が少ない状態で今川の本陣が存在した事を逆算して、織田信長の罠であるとする説はフィクションではよく採用されています。
いずれにせよ、この時期の家康が信長の掌で踊る存在である事を強調する為のエピソードと思われます
大高城が今川方になった経緯
大高城が今川方の城になった経緯についても不審な点があります。大高城は信長が家督を継ぐ迄は、織田方でした。信長の資質に不安を持った鳴海城主山口教継が今川氏に寝返り、その際、調略して今川方の城になった経緯があります。そして、この大高城・鳴海城が今川義元の尾張侵攻(桶狭間の戦い)の最前線となります。
ところが、この山口教継は、すぐに駿河で今川義元に謀殺されます
しかし、寝返ってくれた人物に対して過酷な処分をすると、後に続くものが出ません。
FAは裏切りではありませんが、生え抜き以外を冷遇するという点では、今川は分国法に定めているくらいですからね。それにしても普通は命を奪ったりはしないですからね。
そう疑われた可能性はあります。
大高城は信長の代になって、織田を裏切って今川方になったが、織田を裏切った山口教継が今川義元に命を奪われるという不審な動きがあった
そうなりますね
信長は神になりたかった?
『織田信長は神になろうとした』、という説があって、それの伏線のような話も出て来ました。
豊臣秀吉は豊国大明神として祀られる
徳川家康は東照大権現として祀られる
成り上がった者の定めとして、神にでもならないとリスペクトされないんでしょう
信長のアイデアを盗んだだけかもしれませんが
織田家臣団
家康目線での織田家臣団
織田の家臣団が登場しました。お市の方は、家臣ではありませんが、家康とのロマンスを匂わせる演出がありましたので、後のネタバレコーナーで今後の対比を観ていきたいと思います。
- 豊臣秀吉
- 佐久間信盛
- 柴田勝家
- 明智光秀

因みに相関図に載っている織田信秀は4話時点で他界済みです。
<こんな感じに描かれそう予想>
豊臣秀吉 | ズル賢い奴。 |
---|---|
佐久間信盛 | 権謀術数に長けた腹黒い奴。 |
柴田勝家 | 愚直な男 |
明智光秀 | 嫌味なインテリ |
家康を正当化する為ですからね
佐久間信盛は、この時期織田家の筆頭家老でした。柴田勝家は信行を擁立した罪があったのでこの時期はまだ重用されていませんでした。それにある事件が起こるまでは、織田家臣団の中で家康ともっとも接点の多い人物です。
因みに佐久間信盛は、鎌倉殿の13人の和田義盛の末裔と言われています。なので、名前が”○盛”です。
和田義盛の嫡孫朝盛が三浦一族(三浦義明の四男)の佐久間家村(安房国佐久間(現・千葉県安房郡鋸南町上佐久間、下佐久間))の養子になったのがきっかけ。朝盛の子供の佐久間家盛が尾張国御器所(現名古屋市昭和区)に所領を賜ったのが尾張の佐久間氏に繋がる。
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ネタバレコーナー
お市の方とロマンスはあるのか?
史実では、殆ど接点のない、お市の方と家康ですが、二人のロマンスは描かれるのか?ちょっとタイムラインで確認してみましょう
- 1567~1568年頃お市嫁入りお市の方、浅井長政に嫁入り
- 1573年お市未亡人に浅井氏が滅亡してお市は未亡人に
- 1579年築山殿謀殺徳川家中で築山殿が謀殺。家康に正室がいない状態
- 1582年お市再婚清須会議を経てお市の方が柴田勝家と再婚
- 1583年お市自害北庄城が落城。お市の方は自害する
そうですね。それ以外にも、お市の方の娘(お江)を、秀忠の正室に迎えているので、その辺りで、お市の方から、娘を頼まれるとか何らかのエピソードがあるかもしれませんね。
佐久間信盛との確執
織田家臣団の中では地味な佐久間信盛がクローズアップされていますが、今後、家康と絡みそうな事件を列挙してみましょう。
- 三方ヶ原の合戦
- 五徳の輿入れ
- 水野信元の冤罪
- 久松信俊の謀殺
- 信康の切腹