今回から、家康による三河統一における最大のピンチ「三河一向一揆」が数回にわたって描かれます。また、新たなキーパーソンとして、空誓上人、千代が登場します。
まずはそもそも”一向宗とは何?”というところから、解説していきます。
わしの家
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”家”康の由来
「どうする家康」では、家康の”家”の由来は、妻や子などの家族だけでなく、家臣や領民も含めて”家”(=徳川家)である、という発想から生まれたものと創作されました。
家臣団が分裂するという事態の悲劇性を深めたり、家康のその後の行動の動機付けを高める工夫でしょうかね。
徳川家は、家康の家族だけでなく、家臣や領民も含めた家であるという理論で三河一向一揆をよりエモーショナルにしたり、家康の成長を分かり易くするための伏線か
永禄6年(1563年)の謀反
この時期、三河の国衆が家康に反旗を翻す事件が頻発したのは事実ですが、わざわざ信長や秀吉を絡ませてきました。
そうでしょうね。冒頭の「家臣や領民も含めた家」という定義から、「三河一向一揆」での家康の行いは(史実)かけ離れているので、そこを信長の責任にする伏線でしょう。ネタバレコーナーでやりましょうか。
三河一向一揆
浄土真宗は、なぜ”一向宗”と呼ばれたか?
一向宗とは複数の意味があります(一向俊聖の「一向宗」など)が、一般的には江戸時代までの浄土真宗の本願寺教団の事を「一向宗」と呼びます。
浄土宗が反発したからと言われています。”浄土宗”側から見ると、異端の本願寺教団が「真の浄土宗」と自称する事は認めがたいという事だったんでしょうね。江戸時代になって、本願寺教団側は”浄土真宗”を公称にするように運動しますが、徳川将軍家の菩提寺である増上寺(浄土宗)が反対したと伝えられています。
いえ、折衷案と言う形で「真宗」と呼ぶことが認められました。「浄土真宗」の呼称は戦後になって、宗教の自由が認められてからですね。ただ、浄土真宗の中でも西本願寺派以外は、戦前の「真宗○○派」の呼称を現在でも使っているようです。
浄土宗の反対で戦後まで「浄土真宗」の名称は公称にならなかった
「浄土真宗」自体は、室町時代から衰退の一途を辿り信者がかなり少ない時期がありました。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首の蓮如が登場して、爆発的に広まった(蓮如は「本願寺中興の祖」と呼ばれる)のですが、その時最初に布教の対象にしたのが、一向俊聖の「一向宗」や一遍の「時衆」の僧侶や信者でした。そして蓮如は、その人たちを「一向衆」と呼称しました。それがキッカケと思われます。
要因としては以下の点が考えられます
- 教義を一般人にも分かり易い文章で表した(『御文』)
- 勤行のやり方を広く受け入れられるやり方に改めた
三河で一向宗が強かった理由
蓮如は最初京に居ましたが、「一向宗」を完全に配下におきたい比叡山が圧力をかけます。その結果、「浄土真宗」の教義を護りたい蓮如は各地を転々とする事を余儀なくされますが、主に近江→三河→加賀と移動します。この蓮如が移動した先は「一向宗」が興隆する地となります。この時、教団を護る為に一向一揆を通じて世俗権力への介入を行います。そして初めての一向一揆を起こしたのも蓮如でした(加賀一向一揆)。
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「不入の権」とは何か?
家康と「一向宗」との対立原因は「不入の権」でした。
小学生の社会に出てくる「不輸・不入の権」の事ですね。外部の公権力に対して立ち入りをさせない、警察権・司法権の行使拒否や租税の免除などの特権です
藤原氏に代表される貴族や、寺社が持つ特権、既得権益の塊のようなものですね。今でも宗教法人は課税されないなどの特権を持っていますが。戦国大名は少なからずこれを打破していかないと自身の権力基盤が脆弱になってしまいます。
「不入の権」(独自の権力)を主張する宗教勢力は、家康が戦国大名に脱皮する上で、大きな障害であった。
この当時の宗教勢力は、現在と違い、自らの特権・既得権益を護り、拡大する為には武力行使も辞さない、軍事勢力でした。戦国大名は、こうした宗教勢力の利権を解体しないと、経済力で他の戦国大名に遅れを取るだけでなく、自らの生存すらも危ぶまれるケースもあります。
当時の宗教勢力は平和的な存在でなく、特権・既得権益の為には軍事力の行使や大量虐殺も辞さない存在だった
空誓上人とは
空誓上人(3代目 市川右團次)は親鸞の曾孫にあたる人で、2年前に本證寺の住職に派遣された人です。
これは「浄土真宗」の特徴の一つですが、親鸞の血筋がカリスマ・貴種になっていきます。
企業のトップも世襲がしばしばありますからね。トップを選ぶとき、血統で選ぶのは日本では争いが起きにくく、団結し易いファクターなのでしょう
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千代の正体
歩き巫女は武田の間者?
歩き巫女の特徴は次の通りです
- 特定の神社に所属しない
- 諸国を渡り歩きながら祈祷・託宣・勧進などを行う
そして、戦国時代のドラマに登場する、東海甲信越地方の歩き巫女は概ね「武田の間者」です。
スパイ・工作員ですね。
歩き巫女は職業柄、怪しまれずに各地を移動できたので、「間者」にピッタリでした
モデルは望月千代女?
歩き巫女で千代というネーミングでは、望月千代女が有名です。
望月千代女は、信濃の祢津村(現東御市)にあった”歩き巫女養成機関”の巫女頭であったと言われています。信濃の歩き巫女はノノウと呼ばれていました。
千代は創作の人物と思われるが、望月千代女とネーミングが共通している。
長澤まさみが演じた初音は、真田家でしたね。武田家滅亡後は、歩き巫女による諜報機関は真田家に引き継がれたという説もあります。
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聖女(せいじょ)説
真田家に引き継がれたくノ一は「聖女(せいじょ)」と呼ばれていました。
そういう設定なら「上田合戦」や「大坂の陣」での活躍もあるかもですね。
ネタバレコーナー
大坂の陣と同じ手を使う家康
「三河一向一揆」は和議で決着が着きますが、一向一揆が武装解除した後、家康は一方的に約束を違えて、寺を破却して、一向宗を禁教にします。
そうですね、大坂の陣と同じやり方なので、騙し討ちは家康の特徴的なやり口と言えます。しかし、このような騙し討ちを主人公がやると物語上都合が悪いですね。
一般的に、信長が宗教弾圧をしたと誤解されていますからね。それを利用したのでしょう。しかし実際には信長は、敵対する武装勢力は宗教団体であっても徹底的に弾圧しますが(そうしないと自身が滅ぼされる)、宗教そのものを禁教にしたことは一度も無いので、宗教弾圧とは縁遠い人なんですけどね。
土屋重治は一揆方?
通説では土屋重治は家康方につき、一向一揆と戦ったのですが、「どうする家康」では、どうやら「徳川実紀」の記述(一揆側だったが、家康を護って命を落とす)を採用しそうです。