後篇は、富士川の戦いにフォーカスします。
- なぜ平家は戦わずに撤退したのか
- 水鳥に驚いて撤退したという逸話は本当なのか
- 富士川の戦いが与えた影響
富士川の戦いとは?
平家本隊と源氏勢力の初衝突
「鎌倉殿の13人 前編 NHK大河ドラマ・ガイド」より引用
平家、当初の思惑
以仁王の挙兵も、平維盛や平重衡など平家一門が参陣する前に、藤原景家・景高親子、藤原忠清・忠綱親子などの活躍で事実上決着がついていた。
(出典:wikipedia「石橋山の戦い」)
都にいる平家の思惑としては、石橋山の戦いの結果から、事実上関東の家人だけでケリがつく、と考えていた。
ⒸCopyright NHK
スポンサーリンク
追討軍の実態
【平家の陣容】
<総大将>平維盛(平清盛の嫡孫)
<大将軍>平忠度(平清盛の末弟)
<大将軍>平知度(平清盛の七男)
<侍大将>藤原忠清
当時、藤原忠清は「坂東八ヵ国の侍の別当」として、東国武士団の指揮権を与えられていた。そして清盛は、維盛に対して「入道殿の御定には、『いくさをば忠清にまかせさせ給へ』と仰せ給ひしぞかし。(いくさの事は忠清に任せればよい)」(平家物語より)
また、藤原忠清は平維盛の乳母夫(めのとふ)。つまり、二人は乳父と養君という間柄で有り、共に重盛の一門(小松一門)であった。
7万の軍勢のうち、平家一門の軍勢はごくわずか。殆どが駆武者(かりむしゃ)という、追討の宣旨を理由に、道中無理やり動員された兵で士気が低かった。
しかし、平家の思惑は崩れて、追討軍が富士川に着陣した時点で、南関東及び駿河の平家方(大庭景親、伊東祐親、橘遠茂)は壊滅していた
平家追討軍はそもそも、自分達が到着する前に関東の家人たちが源氏の反乱を平定すると考えていた。その為、彼ら(関東の平家方)に時間的余裕を与える意図もあったかもしれない。
スポンサーリンク
追討軍撤退の真実
7万が4千に?!
「支度の処、敢えて付かず、或いは、其の身参ると雖も、伴類・眷属猶伴わず、或いは、形勢に従い、逆徒等に従う」『吉記』治承4年11月2日条
<頼朝進軍路>
山木の戦い(伊豆):数十騎
→石橋山の戦い(相模):三百騎
→安房へ逃亡:数人
→結城浜の戦い(下総):5千騎
→鎌倉入り:3万騎
→富士川の戦い:20万騎
頼朝軍は短期間で急激に巨大化した
スポンサーリンク
撤退を渋る維盛、説得する忠清
しかし、周りも撤退に賛成したため、維盛も最終的には撤退を受け入れる
「於維盛者、敢無可引退之心云々、而忠清立次第之理、再三教訓、士卒之輩、多以同之、仍不能黙止」『玉葉』治承4年11月5日条
藤原忠清に再三に渡り説得されて、士卒も皆忠清に同意したため、維盛も渋々撤退を受け入れた。
水鳥の真相
平家物語 | 水鳥の羽音に驚いて慌てて逃げる |
---|---|
源平盛衰記 | 水鳥の羽音に驚いて慌てて逃げる |
吾妻鏡 | 水鳥の羽音で包囲されたと思い逃げる |
山槐記 | 水鳥の羽音で敵軍又は裏切り者の奇襲を疑って逃げる |
吉記 | 源氏側の軍勢が多かったため撤退した |
玉葉 | 自軍の兵士が源氏側に数百寝返った為撤退をした |
- 水鳥の羽音以前に撤退は決まっていた(玉葉、吉記)
- しかし、撤退準備の警戒中に水鳥の羽音がして敵軍或いは自軍の裏切りが動いてると勘違いした(山槐記)
- その為、退路を断たれると大変だ、と慌てて撤退した
頼朝にとって最大の脅威は?
実際はちょっと討って出た?
また上総広常の兄、印東常茂も討ち死にしている
スポンサーリンク
武田が脅威でない理由
都からみると、武田も頼朝と同じ源氏の大物だが、義家の血筋ではない為東国では数段劣る存在。
源頼朝>弟たち>木曽義仲>(越えられない壁)>武田
実際、源頼朝の血筋が絶えても、「じゃあ武田が将軍に」とはならなかった
最大の脅威は坂東武者の独立心
主従関係が緩く統制がとりづらい頼朝軍 = いう事を聞かない坂東武者
それを源頼朝が克服していく様が、このドラマの見どころの一つでしょう。
マキャベリストのような恐怖による支配か、マックスウェーバーの言う恐怖と希望による服従か。