鎌倉殿誕生の瞬間
移徙の儀
人によっては、(というか吾妻鏡上は)、この時が鎌倉幕府始まりの瞬間ととらえられているようです
登場人物について、前回は新登場ラッシュでしたが、今回は退場ラッシュとなりました
平清盛
宗教団体との抗争
富士川の戦いで、官軍でありながら大敗した平家。「平家恐るるに足らず」とばかりに各所で反平家の反乱が起こっていた。これに断固とした対応を清盛はとった
- 1180.10.20富士川の戦い平維盛を総大将とする平家の追討軍が敗戦。(9話)
- 1180.11.20近江攻防近江源氏・美濃源氏が挙兵。京への糧道を占拠した上、源氏は京に攻め上る勢いを見せるも平家の追討軍に敗れて美濃に撤退
- 1180.11.22佐竹征伐頼朝軍が、常陸北部の佐竹を征伐。佐竹は東北に逃れる(10話)
- 1181.1.15南都焼討ち話し合いの使者を斬首された清盛が激怒。命を受けた清衡(清盛の5男)が南都を焼討ち(11話)
南都焼討ちの詳細については諸説あります。
巨星墜つ
閏月は、太陰太陽暦で用いられる十二か月にプラスされる月の事です。
其の辺りの詳細は平家側の視点なので「平家物語」の方が詳しいですね
源義円
義円が墨俣川の戦いに参戦した経緯
『源平盛衰記』では、源行家への援軍として、頼朝に派遣されたとなっている。なので、今回の経緯は、「鎌倉殿の13人」のオリジナル設定
義経の因果応報
源行家は戦の才能は無く、負け続けた人だったが、人を焚きつけるのは上手かった模様。
勿論、頼朝のような権謀術数に長けたマキャベリストは、人心操作に長けているので簡単には扇動されず殆ど相手にしない。しかし、義経は後年、源行家に焚きつけられて滅亡への道を歩むことになる
因果応報の伏線?!
墨俣川の戦い
「墨俣川の戦い」は近江(現滋賀県)と美濃(現岐阜県)を概ね平定した平家に対して、近江(現滋賀県)と美濃(現岐阜県)の奪還を目指した源行家軍が衝突した戦
戦場は、美濃(現岐阜県)と尾張(現愛知県)の国境墨俣川。
【戦いの結果】
平家軍の圧勝
墨俣川を挟んで対峙した平家軍と源氏軍ですが、源氏軍が川は渡って奇襲を掛けようと企図したところ、それを察知した平家軍により攻撃を受け源氏軍は大敗北
平家の勝因
- 行家と義円で手柄争いがあり、統制がとれていなかった
- 奇襲を見破った
【戦後】
尾張迄制圧した平家はそれ以上東国には進まなかった
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飢饉により兵糧が不足している為、東国への遠征を躊躇った考えられます。平家は、これ以後、しばらくは、西国の反乱対策に集中します。
伊東祐親
またまた善児
梶原善が梶原景時の家人になるというシャレにならない展開
史料と異なる?伊東祐清
吾妻鏡には二種類の結末があり、同時に亡くなったという説も存在します。しかし、通説は平家軍に合流して北陸で討ち取られた、というものです。
伊東祐清の子孫は備中岡田藩伊東家です。日向飫肥藩伊東家は、工藤祐経の子孫になります。
工藤祐経は頼朝の側近。伊東祐清は、頼朝の命の恩人。ということで、子孫は割と大事にされました。
伊東家は両方の系統で、江戸時代まで大名として存続します
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りく(=牧の方)の権力欲
「京都守護」の伏線か
その時、北条時政がりく(=牧の方)の不満を逸らすように京にいく話をしたが、これは時政が、後に京都守護になる伏線だと思われる
影の薄かった北条家
北条時政も、寿永元年(1182年)「亀の前事件」以降は殆ど史料には出て来ません。登場するのは平家滅亡後、京都守護になるあたりです
亀の前事件
頼朝の愛妾亀の住む家を、北条政子の命令でりく(=牧の方)の兄、牧宗親が破壊する。怒った頼朝が牧宗親の髷を切り落とす。それに反発した北条時政が鎌倉から伊豆に引き上げた事件