タイトルにもなっている「十三人の合議制」誕生の経緯が描かれます。また、頼家が御家人たちの信頼を失う三大失策の一つ「三左衛門事件」が発生します
頼家が御家人たちの信頼を失う三大失策
- 三左衛門事件
- 安達景盛の妻強奪事件
- 領地再分配政策
三左衛門事件が”失策”である理由
三左衛門事件のアウトライン
朝廷の実力者「土御門通親」襲撃を御家人の後藤基清、中原政経、小野義成が企てたとされるもの
後藤基清、中原政経、小野義成の三人が”左衛門尉”である事から、『三左衛門事件』と呼ばれる。三左衛門(後藤・中原・小野)は所領没収の上に鎌倉に送還、後藤基清は讃岐国守護を免職される。また、親鎌倉幕府派の公家も出仕を止められるなど罰せられた。朝廷内の親鎌倉幕府派は一時的に壊滅状態になった。
というか「土御門通親」襲撃計画そのものがでっち上げの可能性もある。土御門通親による、親鎌倉幕府派の弾圧と考えてもいい。
事件発生時、土御門通親と親しい、梶原景時の嫡子・梶原景季が京都滞在中であった。また、土御門通親は大江広元の息子を猶子にしている。頼家としては頼りにしている梶原景時と大江広元のアドバイスに従っただけかもしれない。
土御門通親没後、後鳥羽上皇は鎌倉幕府が罰した後藤基清、中原政経、小野義成の三人を赦免して、側近として用いる。後鳥羽上皇が鎌倉側に「離間の計」を図った可能性もある。後藤基清に至っては『承久の変』で後鳥羽上皇側の戦力となった。この点からも、そもそも「土御門通親」襲撃計画が存在したかどうかは怪しい。
スポンサーリンク
代替わりの不安定な時期
「罪を犯したのだから、罰は当然」という考え方もありますが、鎌倉殿が鎌倉御家人を護らなかった事が後々痛手になります。頼家政権としては、船出一か月でもあり、御家人の利益代表として”是非”ではなく、鎌倉御家人を守る姿勢を示す事が重要でした。
「何が正しいか」という青臭い考え方でなく、「何が求められているか」「何が支持されるか」という考え方に立脚しないと組織の代表、為政者は務まらない。
この後も頼家は、伊勢神宮領6箇所の地頭職停止など鎌倉御家人の利益よりも朝廷側の利益を優先した政治を行う
頼朝時代にもこうした不満はあったと考えられるが、頼朝には実績があり、御家人たちは頼朝に対しては恩も感じていた。しかし、頼家政権は発足したばかりで、何の実績もなく、また御家人たちは頼家に対して恩も感じていない。例え、同じことをしたとしても、この差は大きい。偉業を成し遂げた初代は多くの場合、カリスマである。頼朝も勿論カリスマである。そのカリスマが急に消えたとき、18歳の若者では容易に代替は出来ない。
頼朝の跡目、さぞ重かろう(by後鳥羽上皇)
後藤基清に対して、頼朝が同じ処分をしても御家人たちの反発は無かったでしょう。それは頼朝と御家人たちの間に培われた関係性があるから。頼家は、まずは御家人たちとの関係性を深める事から始めるべきであった。『三左衛門事件』は、頼家が鎌倉御家人から見放される発端となる
スポンサーリンク
『十三人の合議制』誕生
都合が悪いと逃げる頼家
すぐに懸案を放り出す頼家を支えようと北条義時が考え出したのが、「文官4人+梶原景時」で事前整理する方法。しかし、鎌倉御家人で梶原景時だけが入る事を快く思わない、比企能員や北条時政が自らも入り、さらに仲間を呼び寄せて総勢12人となる。
一般的には未熟な源頼家の親裁による暴走を防ぐ目的で制定されたと言われている「十三人の合議制」ですが、「鎌倉殿の13人」では、義時が頼家をサポートするために創設した制度という位置づけになっています
- 徳川家光は「余は生まれながらの将軍である」といった
- 徳川綱吉は、老中による政治を否定して、側用人政治を志した
頼家も生まれた時から鎌倉殿の後継ぎであった。その為、宿老の意見をうざがり恣意的な政治を志す
スポンサーリンク
畠山重忠の乱への伏線?
13人衆を集める中で、畠山重忠とりく(宮沢りえ)に確執が生まれました。
「畠山重忠の乱」の黒幕はりく(牧の方)と言われている
十三人の合議制
梶原景時 | 『梶原景時の変』で謀殺 |
---|---|
北条時政 | 初代執権?『牧氏事件』で追放 |
北条(江間)義時 | 二代目執権 |
三浦義澄 | 病死 |
和田義盛 | 『和田合戦』で討死 |
比企能員 | 『比企能員の変』で謀殺 |
安達盛長 | 病死 |
八田知家 | 小田氏の祖 |
足立遠元 | フェードアウト |
大江広元 | |
中原親能 | 三幡の病死で出家。鎌倉を離れる |
二階堂 行政 | フェードアウト |
三善康信 | 承久の変後逝去 |
それ以外にも、この後の権力闘争では畠山重忠や阿野全成、源頼家、源実朝など、頼朝の家系のものが謀殺されています
頼家側近衆の末路
小笠原長経 | 阿波の守護。子孫は・・・・ |
---|---|
比企宗員 | 『比企能員の変』で謀殺 |
比企時員 | 『比企能員の変』で謀殺 |
中野能成 | ????? |
北条時房 | ちゃっかり北条家に戻る |
中野能成
<「吾妻鏡」が書く中野能成の末路>
「比企能員の変」で所領を没収されて流罪
ただ、中野能成の子孫に伝わる『市河家文書』という古文書(昔の書状)によれば、「比企能員の変」の直後、「吾妻鏡」で捕縛されたと記載されている日に北条時政によって本領を安堵され、四代目将軍時代にも幕府に仕えている。
小笠原長経
小笠原長経は「承久の変」の後、父親の跡を継いで阿波国の守護となる。(配流された土御門上皇の土佐国から阿波国への還御を担当)。そして子孫には最後の女院正親町雅子(孝明天皇の母)や人臣で初めて勲一等を授けられた中山慶子(明治天皇の母)がいる。
北条時房だけが特別扱いを受けたように書かれる事もあるが、頼家の側近、お友達内閣のメンバーは、比企一族以外は、何事も無かったかのようにちゃんと命脈を保っている。