「比企能員の変」は、『吾妻鏡』と『愚管抄』の折衷的な内容でした。サブタイトル「諦めの悪い男」とは、比企能員か、北条時政か、源頼家か、それとも・・・。
北条氏のクーデター?
分割相続の提案
- 関東二十八カ国は一幡に相続
- 関西三十八カ国は弟の千幡に相続
令制国(りょうせいこく)のことですね。恐らく、「逢坂山の関」(近江=現在の滋賀県)で東西を分けているんだと思われます
東側(伊勢、尾張、三河、美濃、若狭、志摩、越前、遠江、駿河、甲斐、信濃、加賀、越中、能登、伊豆、飛騨、武蔵、上総、下総、常陸、上野、陸奥、相模、下野、出羽、越後、安房、佐渡)
西側(大和、河内、山城、摂津、和泉、近江、播磨、備前、美作、但馬、因幡、丹波、紀伊、丹後、伊賀、淡路、伯耆、出雲、備中、備後、阿波、讃岐、肥後、安芸、周防、伊予、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、長門、石見、土佐、日向、大隅、薩摩、隠岐)
さらに『吾妻鏡』では諸国惣守護職は一幡が相続とある
1190年に頼朝が朝廷より任命された日本国惣追捕使の事。普通の守護は令制国に一人任命されて、領地の監督権(軍事権・警察権)が主たる権限。任地国の地頭に出動命令が出せて、京の警備や軍事行動に従事した。惣はその守護の任命や、守護に対する監督権(軍事権・警察権)を持つ。幕府が追捕使から守護に名称を改めた。但し、経済権益は地頭が持っていた。
守護→君臨する人。位重視。ステータスがある。
地頭→権益を有する人。実質的な領地の支配者
鎌倉時代だと分割相続は極めてスタンダード。(「諸子分割相続の原則」)
『吾妻鏡』:評議で一幡と千幡の分割相続が決定した
『鎌倉殿の13人』:比企能員の反対で協議が決裂する
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大義名分
鎌倉殿(将軍)が絶対君主と言う考え方であれば、そうなるでしょう。でも、この時代は儒教の思想も無く、源氏は神輿に過ぎないという考え方に立てば、評議に応じない側を成敗するのは正当(つまり大義名分がある)と言う考え方も成り立ちます。(話し合い絶対主義)
所謂「主君押込」。鎌倉殿と御家人は、鎌倉幕府において、相互に依存・協力しあう運命共同体であり、御家人の想いを軽視・或いは無視する主君は排除しても正当性があると考えられます。
「愚管抄」は、比企側の糟屋有季の関係者の話ですので、詳細は比企側のみの伝聞、或いは『吾妻鏡』同様に比企側に偏っている可能性もあります。
ダークヒーロー義時
政子の助命嘆願を受け流す
『吾妻鏡』では、以下の展開になっています
- 分割相続に納得できない比企能員が、北条時政討伐を頼家に献言
- それを盗み聞きした北条政子が北条時政に伝える
- 北条時政が先手を打って比企能員を仏事を口実に自邸に招き騙し討ち
北条義時がいよいよダークヒーローぶりを全開。政子からの”一幡の助命嘆願”に対して「命は奪わない」と言いながら、すぐに「戦になったら真っ先に殺せ」と命じる冷徹ぶり。明確に一幡がメインターゲットであることを泰時に伝える
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始まる前に勝負アリ?
比企陣営
河原田次郎朝綱 | 比企能員の猶子 |
---|---|
笠原十郎親景 | 比企能員の娘婿 |
中山為重 | 比企能員の娘婿 |
糟屋有季 | 比企能員の娘婿 |
比企余一兵衛尉 | 比企能員の子 |
比企三郎 | 比企能員の子 |
比企四郎時員 | 比企能員の子 |
北条陣営
北条泰時 | 義時の子 |
---|---|
平賀朝雅 | 時政の娘婿。比企尼の孫 |
小山朝政 | 下野守、播磨守護 |
畠山重忠 | 時政の娘婿。武蔵留守所惣検校職 |
三浦義村 | 土佐守護 |
和田義盛 | 侍所別当 |
仁田忠常 |
三浦義村が土佐守護に
三浦義村を例に、北条側の自陣営に取り込む懐柔策を考察します
- 7月頼家重篤に
- 8月三浦義村が土佐守護に
- 9月比企能員の乱。三浦義村は北条に味方
御家人に守護を与えるのは鎌倉殿の役目ですが、8月時点では頼家はそのような健康状態では無かったと考えられます
こうして、北条は御家人たちを懐柔していく。
用意周到な義時。神算鬼謀で始まる前から勝負アリ!
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義時の謀略
トウ初仕事
その後に、残された一幡の運命は・・・!
蘇る頼家
乱後の後始末をする北条家の面々ですが、頼家復活の報に接します
もう、いいだろう(もう何も出来ない)というタイミングですかね
時政、りく(=牧の方)排除の布石?
『比企能員の乱』の顛末(「吾妻鏡」準拠)
- STEP019月2日比企能員騙し討ちで討ち取られる。比企館陥落。比企氏族滅
- STEP029月3日能員与党の処断
- STEP039月4日頼家側近衆の拘禁
- STEP049月5日頼家危篤を脱する。和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じる
- STEP059月6日仁田忠常誅殺
- STEP069月7日頼家が出家
- STEP079月8日千幡が時政邸に移る。時政の名前で所領安堵の下知状が出される
- STEP089月15日政子が千幡を時政邸から引き取る。時政が狼狽える。千幡が征夷大将軍に就任
義時・政子は、うまく時政を矢面に立てて風よけに使いながら、時政が調子に乗り過ぎていると見えると、梯子を外す冷徹さ。
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『比企能員の乱』その後
比企能本
比企能員の息子たちの中で比企能本は生き残りました。母が三浦氏の娘の為か、母と共に一族の和田義盛が身柄を引き取り、安房(千葉県南端)に配流となります。
石橋山で敗戦した頼朝が逃げ延びたのが安房です。
比企能本は僧(本行院日学上人)となり、比企ヶ谷の比企氏館跡に妙本寺(の前身)を建立。妙本寺の山号「長興」は、比企能員の法名で、寺号「妙本」は、能本の母の法名。
北条義時の孫(北条政村の娘)が、比企能員の娘讃岐局の怨霊に憑りつかれる騒ぎがありました。尚、怨霊は炎に包まれたヘビの姿をしていたとか。
鎌倉・妙本寺の境内には、若狭局を祀る蛇苦止堂がある。
どちらかが誤りだと言われています
島津忠久
比企尼の孫、島津忠久(後の薩摩藩島津家の祖)は、乱への加担は無かったものの、連座で責任を追及されて薩摩・大隅・日向の守護でしたが、全て没収されました。
北条氏との”近さ”の差だと思われます。平賀朝雅は時政の娘婿、安達景盛は坂東の御家人で北条氏とは懇意でした。
中野能成
<「吾妻鏡」>
「比企能員の乱」で所領を没収されて流罪
<実態>
「比企能員の乱」直後、北条時政に本領を安堵される
北条時政は、矢面に立たされて、風よけに利用されただけか