仁田殿の最期
吾妻鏡の仁田忠常
まずは『吾妻鏡』の内容を確認しましょう
『仁田忠常の最期』(「吾妻鏡」準拠)
- STEP019月2日比企能員の乱
- STEP029月5日頼家が危篤を脱し、堀親家を使者として和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じる。和田義盛は北条時政に知らせる。北条時政は堀親家を謀殺
- STEP039月6日仁田忠常は能員討伐の慰労を受ける。時政の館で酒宴に参加。忠常の帰宅が遅い事を訝しんだ家人や弟たちが勘違いをして、北条義時がいる御所に攻め入る。忠常も酒宴の帰りに御所に行き、幕府側の御家人に討ち取られる
- 源頼家に北条時政討伐を命じられるが、対処は不明
- 時政邸(名越)の酒宴に参加
- 帰りが遅いので不審に思った弟たちが勘違いから御所を急襲
- 忠常も駆け付け弟たちと共に誅殺される
如何にも北条側に都合の良いお話です。あと、仁田忠常や弟たちが思慮が足らなすぎる感じがしてリアリティがありません
<小ネタ>
頼家の使者となって、時政討伐命令を伝えた堀親家は、木曽義高を討って打ち首になった藤内光澄の主人です
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異説「愚管抄」
『仁田忠常の最期』(「愚管抄」準拠)
9月5日に北条義時と侍所に出仕し、そこで義時と闘って討たれた
「愚管抄」は糟屋有季の遺族の証言ですから、偏っている可能性&出来事の表面しかわからない可能性があります
仁田忠常は幕府の施設で北条に討たれたという事は共通している。「愚管抄」には、その背景等は記述されていない
災いの種:頼家
頼家と一幡
本命は、31話で北条義時から『災いの種』と名指しされた一幡と32話でりくから指摘された頼家の親子でしょう。「鎌倉殿の13人」では、仁田忠常の死亡を頼家の責任にする事で、頼家追放を正当化した感じですね
『吾妻鏡』では暗殺ではなく、単なる死亡と記述されています。暗殺が出てくるのは『愚管抄』です
安達景盛を引き渡すように政子に手紙を送ったりしてますね
ふぐりを掴まれてじゃなく、景盛に切り取られてなら、まさに「ゴッドファーザー」ですね
公式相関図の一幡には”故人”マークがつく
因みに頼家の子供たち
(公暁)
実朝を暗殺する
(栄実)
二度謀反の旗印として擁立された挙句自害する
(禅暁)
実朝暗殺に加担した疑いを掛けられて誅殺される
(竹御所)
第4代将軍藤原頼経の正室となるが男子を死産し、死亡
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災いの種:りく
北条政範と平賀朝雅
北条政範
りく(=宮沢りえ)が産んだただ一人の男子。若干16歳にして26歳上の義時と並ぶ官位(従五位下)を持っている事から、北条家の嫡子であったとの見方が多い。
平賀朝雅
平賀氏は源氏門葉の筆頭(行事では頼朝の弟たちより上座であった)。朝雅は頼朝の猶子にして、りくの娘婿でもあった。因みに比企尼の孫でもある。比企能員の乱後、京都守護として京に滞在する。
この二人が絡む災いは「畠山重忠の乱」と「牧氏事件」です。
三代将軍源実朝の御台所として京の公家坊門信清の娘(西八条禅尼)を迎える使者に北条政範も選ばれる。(選ばれたのは10人。選考基準は見栄麗しい事)しかし、京に向かう途中で政範は体調を崩す。京について、使者を歓迎する酒宴が平賀朝雅邸で行われるが、そこで朝雅と使者の一人畠山重保(畠山重忠の息子)が口論になる。翌日、北条政範が病死する。
ここで平賀朝雅が、「北条政範が病死したのは、畠山重保がムリをさせたからだ」とりく(=宮沢りえ)に讒言したことが、「畠山重忠の乱」の発端と考えられています
武蔵国の権益を巡る対立
元々武蔵国で生まれ育って、在庁官人として権益を保とうとする畠山氏と、武蔵守として権益を確保しようとする平賀朝雅とその後見人の北条時政の利害が衝突
北条家内部の対立
自分の産んだ子供とその娘婿だけで権力を掌握しようとするりく(=宮沢りえ)。前妻の子や娘婿など、それ以外の北条一族が邪魔になり、排除しようとする
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比企尼と公暁
比企尼はこれで退場ですかね。相関図から抜け落ちていました
しかし、何気に三浦義村が「実朝が亡くなったら可能性がある」って煽っていました
公暁とつつじを煽る三浦義村。比企尼の再登場はあるのか?最大の災いの種は三浦義村か、比企尼か
比奈の子供たち
北条 重時
余談になりますが、今回で退場した比奈の子供たちについて、解説します
比奈には義時との間に男子が二人いました。朝時と重時です。
極楽寺流の重時は、大河ドラマ「北条時宗」では、平幹二朗が演じました。北条一門の中でも人格・業績の評価が高い人物です。日蓮は重時の事を「極楽寺殿はいみしかりし人」(立派な人物)と高く評価しています。幕府でも執権の次位にあたる連署を務めています。
子どもの長時は、執権に就任しています。大河ドラマ「北条時宗」では、川崎麻世が演じました。娘は北条得宗家(泰時の子孫)の時頼に嫁ぎ、北条時宗を産んでいます(北条時宗の祖父になります)。子孫には最後の執権北条守時や、母系ですが、足利尊氏などもいます。
北条重時の極楽寺流は、北条一門の中では、北条得宗家(泰時の子孫)に次ぐ主流派となります
高倉健の祖?北条朝時
兄の朝時は、北条時政の邸宅(名越邸)を継ぎ、名越 朝時とも呼ばれました。元々、正室の子供だったため、当初は嫡男だったと言われています。それが、将軍御台所に仕える官女に言い寄った事を実朝に咎められて、父の義時から義絶されます。本来は自分が嫡流であるという意識が強かったのか、義時の後を継いだ泰時とは疎遠であったと言われています。
存続したどころか、比企氏の地盤であった北陸・九州を引き継ぎ、家格としては、北条得宗家(泰時の子孫)に次ぐものでした。しかし、度々反逆したため、勢力は衰退し、子孫からは執権や連署などの要職を担うものは出ていません。
しかし、その子孫からは、俳優の高倉健や歌舞伎の祖といわれる名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)などが出ています。