平賀朝雅と畠山重保
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口論の原因
史料では平賀朝雅と畠山重保の口論が原因で「畠山重忠の乱」が発生したと記載されていますが、「鎌倉殿の13人」では、その口論の原因が、平賀朝雅による北条政範暗殺の密談を畠山重保が立ち聞きしていたから、と設定されました。
畠山重保が北条義時、大江広元らに訴えますが、平賀朝雅は先手を打って、りく(宮沢りえ)に「畠山重保が毒殺した」と吹き込みます。
平賀朝雅誅殺の伏線
北条政範暗殺は、「牧氏事件」での平賀朝雅誅殺をムリなく展開する為の伏線かもしれませんね
その後、きく(平賀朝雅の室、北条時政の娘)と、北条政子、北条義時が良好な関係であったという結論にも無理なく繋げる意図が有るのかもしれません
畠山重保
因みに畠山重保は畠山重忠の次男ですが、母が北条氏(時政の娘、ちえ)の為、兄を差し置いて、嫡男とされます
りく(宮沢りえ)は、あからさまに「私の血筋じゃない」って言い放ちましたが。
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「伊賀氏の変」の伏線
北条家の後継ぎ
一方、のえ(伊賀の方)は、北条義時との間の子を欲しがり、その子に北条家の跡を継がせる事を祖父である二階堂行政に宣言します
因みに畠山重保が討ち取られた日と、北条政村(のえの第一子)が誕生した日は同日(6月22日)である伝えられています
最初から平六(三浦義村)を頼れば・・・
三浦義村は初対面で、指先についた米粒から、ウソつきである、のえ(伊賀の方)の本性を見抜く
義時は女子の目利きは八田知家ではなく、三浦義村に頼むべきだった
伊賀氏の興隆
のえの父伊賀 朝光は二階堂行政の部下でしたから、下級階級ですね。ただ、能力はかなり優秀だったようで、二階堂行政の娘婿となりました。優秀ですけど、家柄が下級の為、伊賀守になったのも北条義時が執権になった後で、義時の権力によるものです。能力が高くても報われない、という鬱積した想いがあったのかもしれません
のえ(伊賀の方)は、ハングリー精神旺盛で成り上がり志向が強い設定。出自から、その背景には矛盾なし。
暗殺はする側のドラマも必要になるというのは三谷幸喜の持論。果たして、義時暗殺説を採用するのか?
りく(宮沢りえ)の娘たち
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源実朝(柿澤勇人)の妻になる後鳥羽上皇(尾上松也)のいとこ・千世(加藤小夏)が鎌倉へ到着しました。事前に千世の兄弟・坊門忠清には、りく(宮沢りえ)の娘が嫁いでおり、ドラマでは描かれていませんが、りくが根回しした結婚だと考えられます
きく(=平賀朝雅の室)
きくと平賀朝雅の婚姻は以前に考察した通り、対比企用の多数派工作であったと考えられます。
結果的に、比企尼の外孫で有力な御家人は「比企能員の乱」で比企側に味方するものはなく、北条氏の圧勝で終わる。
藤原国通と再婚して京に住みます。藤原国通は、鎌倉幕府の推挙を得て権中納言に昇進しています。きく(八木莉可子)と異母兄弟である、北条政子、北条義時との関係は良好であったようで、両者が亡くなる前後には、きく(八木莉可子)は、坂東に下向しています。また、国通が義時の孫娘の富士姫を猶子に迎えたり、政子の20回忌供養を国通の有栖川邸で行なったり良好な関係は義時、政子死後も続くようです。
りく(=牧の方)が時政の13回忌を国通の有栖川邸で行なった。法要は、りくの娘たちのほか、娘婿の藤原国通、孫娘の婿の冷泉為家など、公卿が6名、公卿に次ぐ身分を持つ官人である諸大夫が数名、それ以外に殿上人が10名出席するという盛大なモノであった。
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滋野井実宣室と坊門忠清室
「鎌倉殿の13人」には、きく(八木莉可子)のみが登場していますが、それ以外にもりく(=牧の方)の娘たちは存在します。最初から、京の貴族と婚姻したのは滋野井実宣室と坊門忠清室です。
滋野井実宣は、正二位・権大納言
坊門忠清は、従四位上・近衛中将
宇都宮頼綱室
そして、鎌倉御家人に嫁いだのが宇都宮頼綱室です。
宇都宮頼綱は、藤原姓宇都宮氏5代当主。
この宇都宮頼綱は、牧氏事件で謀反を疑われて出家しています(後に嫌疑が晴れて幕府より許される)
元もと、藤原定家と宇都宮頼綱は同族(同じ藤原氏)と言う事で、交流があったのですね。
藤原定家の日記『明月記』には、りく(牧の方)が娘と身重の孫娘(藤原為家室)を連れて、天王寺や南都七大寺に参詣したことが記載されている(藤原定家は藤原為家室が身重で有る事から、連れていく事に不快感を示している)