史料に基づく「牧氏事件」と「鎌倉殿の13人」の違い。どういう理由で「鎌倉殿の13人」では史料に追加設定されたのかを考察します
牧氏事件
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あらまし
事件は、「畠山重忠の乱」直後の閏7月19日に発生する。鎌倉で北条時政とりく(牧の方=宮沢りえ)が、三代将軍源実朝を暗殺して、平賀朝雅(頼朝の猶子)を新将軍として擁立しようとしているとの噂が流れる。実朝の身を案じた北条政子は御家人(三浦義村・三浦胤義・長沼宗政・結城朝光など)を遣わして、実朝を義時邸に迎え入れる。北条時政に味方する御家人は殆どいなくて、翌20日には、北条時政とりく(牧の方=宮沢りえ)は伊豆に追放される。
同じ日(閏7月20日)、北条義時は大江広元らと協議して平賀朝雅討伐を決める。7月26日に平賀朝雅は在京御家人の襲撃を受け誅殺される。
事件の謎
【謎】北条時政とりく(牧の方=宮沢りえ)は、なぜ源実朝を暗殺してまで平賀朝雅(頼朝の猶子)を新将軍にしたかったか?
「畠山重忠の乱」の恩賞が政子によって行われた事で、北条時政の執権としての権威は失墜していました。実権を奪われた北条時政とりく(牧の方=宮沢りえ)は、敗北を受け入れて権力の座から退くか、乾坤一擲の大勝負にでるかの二択を迫られることになります。
りく(牧の方=宮沢りえ)は自分で欲深いと言っていましたね
尚、「鎌倉殿の13人」では、北条時政とりく(牧の方=宮沢りえ)が計画したのは、実朝の暗殺では無くて出家の強要でした。
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阿野時元
「鎌倉殿の13人」では、阿野時元が時政に協力している設定でした
他の史料との齟齬は殆ど無い
『明月記』(藤原定家)に”北条義時のクーデター”と書かれている以外は、『愚管抄』・『保暦間記』では陰謀の首謀者が北条時政・りく夫妻とされており、『六代勝事記』・『北条九代記』では陰謀の首謀者が北条時政とされており、大差ありません
りく(牧の方=宮沢りえ)が黒幕だったとしても、北条家の外部に対して、表立って動くのは時政なので、北条家外部から表に現れる事象だけ観ていては”北条時政の陰謀”と見えても不思議ではありません。なので、時政単独と、北条時政・りく夫妻共謀は、実態としては差は無いと言えます
多数派工作と北条の跡目争い
多数派工作はなぜ失敗したか
りく(牧の方=宮沢りえ)は、三浦義村を味方に引き入れる事で、多数派を形成しようとしましたが、あっさり三浦義村に裏切られます。
- 実朝を力づくで引きずりおろしても、後継が平賀朝雅では成功しない
- 時政とりく(牧の方=宮沢りえ)がいう「平賀朝雅の次が善哉」というのはウソだと見切った
「鎌倉殿の13人」でも、時政とりく(牧の方=宮沢りえ)の会話でありましたが、彼らの目的はりく(牧の方=宮沢りえ)の娘が産んだ子供を鎌倉殿にして、鎌倉殿の外祖父になる事なので、善哉の目は逆に無くなるという事ですね
善哉は北条政子にとっては孫だが、りく(牧の方=宮沢りえ)とは何の血縁も無い。梶原景時の連判状で、りく(牧の方=宮沢りえ)の狡猾さを見ている三浦義村は簡単にそのウソに気づいた。
頼家を出家させたときは、頼家が病床に伏していて回復の見込みがなかったので、周囲も代替わりに納得した
風見鶏の平六(三浦義村)。相変わらず勝つ方につきます
北条の跡目争い
「鎌倉殿の13人」では、あまりクローズアップされませんでしたが、「牧氏事件」の引き金に北条氏の跡目争いがあったとの説も有力です
若年の北条政範と壮年の北条義時が同じ官位であったことから、若い北条政範が北条氏の嫡男であったとの説が有力です
逆に政範が亡くなった事で、時政体制がレームダックになり、時政とりく(牧の方=宮沢りえ)が、義時&政子の勢力に対して、勝負に出る必要があったとの見方もあります