退場者が続出した関係からか、今回から新たな登場人物が出ます。北条政村と藤原秀康。そして、三寅。この三人についてまずは解説します
北条政村
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時を継がない者
まずは北条政村です。北条政村は、「畠山重忠の乱」があった年に北条義時とのえ(伊賀の方)の間に生まれて、四男として遇されます。実質は5番目に生まれた男子。
【北条義時の子供の序列】
- 泰時
- 朝時
- 重時
- 政村
正室の子ですが嫡男ではない、ということです。武家社会では”庶子”と呼びます
序列は妾腹の子よりも上だが、あくまで跡取りではないという扱い
元服は「和田合戦」の時で、烏帽子親は、三浦義村です。三浦義村を烏帽子親にしたのは、北条が三浦一族を懐柔する為だったと推察されます。
第38回のサブタイトルが「時を継ぐ者」でしたが、北条政村は文字通り”時を継がない者”として誕生した事になります
伊賀氏の変
「伊賀氏の変」のフラグと考えられます
【「伊賀氏の変」と政村】
伊賀氏の変とは、義時死亡後、のえ(伊賀の方)が、兄の伊賀光宗と共謀して、自らの実子である政村の執権就任と、娘婿の一条実雅の将軍職就任を画策した政変。
未然に防がれ、のえ(伊賀の方)と、伊賀光宗やその弟たち及び、一条実雅が罪を問われて配流となった。政村自身は罪には問われなかった
尚、政子の死後、伊賀光宗やその弟たちは許されており、泰時が「謀反は無かった」と述べている(吾妻鏡)。
詳細は以下の通り
- STEP016月13日北条義時急死
- STEP026月17日知らせを聞いた北条泰時が京をたつ。しかし、鎌倉には向かわず伊豆に入る
- STEP036月18日北条義時の葬儀が執り行われる
- STEP046月26日北条泰時、北条時房の到着を待って一緒に鎌倉に入る
- STEP056月28日北条政子が北条泰時、北条時房の両名を執権に任命
- STEP077月5日伊賀光宗やその弟たちが三浦義村邸を訪問
- STEP087月17日鎌倉に軍勢が集結して騒動になる。政子が義村を問い質す。義村は「自分は何も知らないが、伊賀光宗たちは何かを企んでいるので、私が制止する」と返答する
- STEP097月18日北条泰時と三浦義村が密談。政村に対して処罰無しが固まる
- STEP10閏7月1日臨時宿老会議。三浦義村は暗躍できない様に拘禁される
- STEP11閏7月3日伊賀氏の変の処分が決まる
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事件の存在そのものに疑問を呈す(政子のでっち上げ説)意見もありますが、『明月記』には、一条実雅の実兄の証言として、北条義時が伊賀の方に毒殺されたという記載もあります。実際に一条実雅は許されておらず、兄の証言後、配流先で変死しており、陰謀が事実無根とも考え難いです。
陰謀は確かにあり、その根は(神輿になりそうな人物=一条実雅)は断つ必要があるが、義時の暗殺などが表沙汰になると、未だ創成期で安定していない鎌倉幕府の権威が揺らぎ困るので、謀反を無かったことにした・・・というのがしっくりくる解釈でしょうか。少なくとも、
北条政子とのえ(伊賀の方)の間に権力闘争があった
のは事実と考えられます
一条実雅
太政大臣の西園寺公経の猶子で、源実朝の右大臣就任の鶴岡八幡宮参詣に随従し、暗殺の一部始終を目撃した人です。
その後、一族の(姉の孫)三寅(後の九条頼経)が次の鎌倉殿に決まり、鎌倉に来た為、お世話係としてそのまま鎌倉に残りました。
その後、義時の娘(母はのえ)を妻に迎えて、北条一門にもなりました。「鎌倉殿の13人」で言えば、平賀朝雅と源仲章を足して二で割ったような存在でしょうか
三寅と藤原秀康
三寅(九条頼経)
慈円が複雑な説明をしていましたが、源頼朝の妹にあたる女性の曾孫です
血筋が高貴で扱い易ければ良いという判断でしょう
摂家将軍(藤原将軍あるいは公卿将軍)には欠陥がありました。三寅(後の九条頼経)は成長すると、自分の政がしたくなり操り人形でいる事を拒否します
将軍を北条氏の都合の良い操り人形にする為に、幼い人物を将軍にして、大人になる頃に将軍を罷免するスタイルをとるようにしますが、幕府の政務機関である『政所』を開設できるのは、親王か、三位以上の官位を持つ者です。政子は従二位だから政子が生きている間は尼将軍で良かったですが、幼児に高い官位を与える訳にもいかず、その後、制度の正当性を保つのに困る事になります。
この時代は、「武家政権の樹立」という先例のない事をしようとするので、ある程度トライ&エラーは仕方ないですね。
そんなことはありません。京に送り返されますが、親王の地位はそのままで、幕府が朝廷内でのポジションや人間関係を調整しました。また、経済的に困らない様に領地を与えたりもしています
因みに三寅(後の九条頼経)自身は謀反をしたので、その息子(五代将軍)ともども厚遇はされていません。が、元々九条家のぼんぼんなので生活に困ったという事も無かったようです。息子共々流行病(赤痢)で亡くなっています。その事について不審がる意見もありますが、史料上は不審な事は何もありません
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藤原秀康
藤原秀康は警備や治安維持で功績を上げた人物です。京の盗賊退治で一躍有名になりました。
その後、後鳥羽上皇が創設した西面の武士に選ばれます。後鳥羽上皇の側近だけあって、位は高く、和田義盛が熱望した上総介にも任官しています
「オリエント急行」説について
<義時を恨む?人物>
- りく
- 実衣
- 北条泰時
- 北条政子
- ちえ(畠山重忠の妻)
- きく(平賀朝雅の妻)
<野心から義時を狙う人物>
- のえ
- 三浦義村
アガサ・クリスティーっぽい、ラストと言う事ですが、容疑者が沢山いてみんなに動機があるって時点ですでにアガサ・クリスティーっぽいですからね