サブタイトルは、「三河平定戦」ですが、主に織田に味方する水野信元との戦い、そして、家康が今川と手を切って織田と同盟を結ぶまでの過程が描かれました
水野信元とは
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水野信元の勢力範囲
水野信元は、水野一族の宗家である緒川水野家の当主です。本拠は緒川城でした。
緒川城は現在の地名では愛知県東浦町辺りになります。水野信元は、東浦町を根元に海に延びる知多半島を勢力下に置いていました。そして、桶狭間の戦い直後は、刈谷市、大府市、知立市あたりまで勢力を伸ばしていました
現在の愛知県

松平軍と水野軍がぶつかったのは、主に両者の勢力の間にある刈谷城(刈谷市)、石ヶ瀬川(大府市南東)でした。
家康との関係
水野信元は、家康の生母、於大の方の兄であり、母方の伯父にあたります。通説では、松平氏と水野氏は同盟関係にあったが、水野氏が織田氏との同盟に切り替えたため、今川への忠義を優先する松平広忠が於大の方を離縁して、戸田氏から真喜姫(田原御前)を後妻に迎えた事になっています。そして、それをキッカケとして、松平氏と水野氏は険悪な関係になった事になっています。
2話で考察した通り、「三河物語」に記載されている戸田康光が今川を裏切って、竹千代(家康)を織田に引き渡したという説は、かなり怪しいです。なぜなら、真喜姫(田原御前)は、松平広忠没後も岡崎に留まり、その地で没しているからです。実家が織田と同盟を結んだという理由で、離縁するなら、今川を裏切って竹千代(家康)を織田に引き渡した戸田家出身の真喜姫(田原御前)は、松平家の中で、もっと立場が悪くなって離縁されてもおかしくありません。そうなっていない以上、この通説には信用がおけません。
近年の研究では、松平広忠が於大の方を離縁した理由は、戸田氏と同盟を結ぶためと言う説が唱えられています
その結果、織田が松平を攻めて、岡崎城が落とされて、竹千代(家康)が織田の人質になったと考えられています。(戸田氏が今川に攻められたのは別の事情)
そう考えると、①松平広忠が於大の方を離縁した事、②竹千代(家康)が織田の人質になった事、③真喜姫(田原御前)が離縁されずに松平広忠没まで岡崎に居た事、④戸田氏に松平姓が下賜された事などが矛盾なく成立します。
於大の方が離縁された理由について、通説はかなり怪しい。徳川プロパガンダの可能性が高い
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人望はない
とはいえ、水野信元自体に人望がない事も事実の様です。家康が織田と同盟を結ぶと、水野信元の実弟である水野忠重が、水野信元を見限り、家康の家臣になっています。
実弟に見捨てられるくらい、人望が無かったこともまた事実
バルカン政治家なのか?
水野信元は知多半島を本拠地にしている関係上、しばしば”バルカン政治家”とイメージされてきました
バルカン政治家とは
語源はバルカン半島で活躍した政治家から。戦国時代のような統一国家が無い時代背景では、半島地形の特色として、海路や陸路を通じて様々な文化・勢力が流入して多様化が進み、多くの勢力が乱立しやすくなります。そのような状況では、同盟相手・敵対相手の変心・寝返りなどその時々の状況の変化に素早く手を打てる手腕を持つ政治家が必要とされます。そうした、外交手腕に長けた政治家をバルカン政治家と呼びます。
水野信元は、同盟の裏切りも殆ど無かったので、バルカン政治家のイメージは濡れ衣っぽい感じもしますね
織田と水野の関係
織田氏と水野氏の関係は、当初は対等に近い同盟関係でしたが、この時期は明らかに従属関係になっていました。
水野氏は度々、今川に攻められて、織田の救援を仰いでいたからだと思います。水野は織田に助けてもらうたびに従属性が増していたようです。なんとなく、後の織田と徳川の関係の様ですね。
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清洲同盟への道
今川が援軍にこない理由
家康は織田と対決して、三河を護る覚悟でしたが、待てど暮らせど今川の援軍は来ずに次第に劣勢に追いやられていきます
諸説ありますが、その年から上杉謙信の関東侵攻(小田原城の戦い)が始まって、それどころではなくなったというのが有力でしょうか。
今川と後北条の関係は、
- 氏真の正室・糸が北条氏康の娘
- 今川義元の父、今川氏親と北条早雲は伯父・甥の間がら
今川氏真からすると、「嫁の実家の一大事」でもあったわけですね
信長の思惑
水野信元が、織田と松平の同盟を持ちかけますが、これは当然、織田信長の意向を汲んだものと考えられます
ハッキリ言って、三河に魅力を感じていなかったのだと思います。東に行けば、京から離れるというデメリットがありますからね。また、強敵の武田信玄と距離をとりたかったというのもあったのかもしれません
商業を重んじる信長にすれば、伊勢湾の制海権をとる事も重要で、都に近い美濃や北伊勢を優先したかったのだと思います。
東に行けば、都からは離れて強敵と接する事になる。東は元康(家康)に任せて西や北に進路をとって、都に近づきたい信長
今川との手切れを決断した時期
ドラマでは、家臣に迫られて渋々、今川との手切れを決断した事になっていました。
江戸時代に徳川に都合よく改変されたのだと思います。徳川が不義理であった事が公になれば、江戸時代に浸透させようとしていた「忠義」が揺らいでしましますからね。実際は、もっと早く今川に見切りをつけていたと考える方が合理的です。
そこまでは(2話終了時点くらいまで)、当座の身を護る事が優先で、先の事はあまり考えられなかったと思います。しかし、岡崎で一息ついた頃には、客観的な情勢分析も出来るので、今川との手切れを考え始めていたでしょう。とはいえ、いきなり今川を敵に回すと全方位敵だらけになるので、織田方に「松平の実力」を見せて、なるべく対等の関係を結べるようになる迄、ネコを被っていたのでしょう。
吉良は忠臣蔵の吉良上野介?
登場していた武将は吉良義昭ですね。その兄の吉良義安の子孫が忠臣蔵で赤穂浪士に討たれる吉良上野介になります。
ネタバレコーナー
水野信元の最期
- 水野信元は、武田勝頼への内通を織田信長に疑われる
- 織田信長の命令を受けた徳川家康が、石川数正に命令して、水野信元の命を奪う
誰かににていますね。
「水野信元謀反の冤罪」の構図があまりに信康切腹事件と似ているので、作為のようなモノも感じられます。また、この事件がキッカケで於大の方が、復讐者になり、信康(竹千代=家康の嫡男)の切腹事件や石川数正の出奔事件の黒幕になったという説もあります。
主君たるもの家臣や国の為なら、己の妻や子くらい平気でうち捨てなされ!
尚、水野信元は冤罪であることが後に判明します。水野信元の跡取りも命を奪われていましたが、織田信長は罪滅ぼしとして、水野信元の弟の水野忠重に水野家を再興させます。