本多正信は軍師なのか?
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苦戦する家康
家康率いる松平軍は一揆軍に大苦戦します。その要因は二つ描かれました。
一つは一揆側が死ぬことを恐れないという事でした。
これは一向宗(浄土真宗)の浄土往生に基づく思想ですね。仏教は元々、個人の解脱(厳しい修行の後に悟りを得て、迷いの輪廻から脱して涅槃に至る)を目的とする教義でした(小乗仏教)。そこから自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行に展開して、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏する教えが人々の支持を広めました。
本多正信は軍師?策士?
もう一つは、一揆側に優秀な軍師がいる事でした。
その軍師の正体は本多正信でした。本多正信が竹中半兵衛や黒田官兵衛のような有能な軍師として描かれます。
本多正信は謀略や行政手腕が目立って、軍功は目立たないので違和感を持つ人が多いと思います。
戦国武将には2つのタイプがあり、
- 豪胆で「戦の強さ」や「カリスマ性」で魅了するタイプ
- 虚言甘言で人の心を操り、謀略で目的を遂げるタイプ
本多正信は謀略で目的を遂げるタイプのイメージが強いですね
一揆側に付いた家康の家臣
渡辺守綱(演者:木村昴)
一揆側に加担した松平家の家臣団を整理しましょう。まずは渡辺守綱(演者:木村昴)です。
徳川十六神将の一人で「槍半蔵」の二つ名で呼ばれました。
三河一向一揆の前年の永禄五年(1562)、東三河の覇権を賭けた今川との戦(佐脇・八幡の砦の戦い)で家康軍が敗れた時に、追撃してくる今川軍を渡辺半蔵守綱が得意の槍で防ぎ、反撃のキッカケをつくった奮戦ぶりを称賛されて「槍半蔵」と呼ばれるようになりました。勢いを取り戻した家康軍(大将は酒井忠次)は、今川方の武将板倉重定を討ち取り、今川方は、東三河を事実上放棄せざるを得ない様になりました。
夏目広次(演者:甲本雅裕)
「どうする家康」では文官のような扱いですが、この人も、渡辺守綱と同様に今川との戦(佐脇・八幡の砦の戦い)で武勲を挙げた人です。家康から勇猛果敢な忠義者と賞され備前長光作の脇差を賜っています。
また、公式の人物紹介にもある通り、夏目漱石がこの人の末裔を自称しています。
蜂屋貞次(徳川十六神将の一人)、本多正重(本多正信の弟)、内藤清長、加藤教明(加藤 嘉明<賤ヶ岳七本槍:陸奥会津藩初代藩主>の父)、鳥居忠広(徳川十六神将の一人:鳥居 忠吉<演者:イッセー尾形>の四男)などがいます
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家康の危機は本当にあったのか?
蜂起する反家康派
千代の暗躍によって、潜在的な反家康派が、一向一揆を好機とみて一斉に放棄する事態になりました。
- 吉良義昭
- 荒川義広(家康の妹婿)
- 松平家次(桜井松平家当主)
- 酒井忠尚
- 松平昌久(大草松平家)
などが一向一揆に乗じて蜂起したと言われています
但し、これらのメンツも「家康に敵対する」という点は同じでも、動機もバラバラで、一揆側との連携も出来ておらず、統制がとれていなかったようです。
上和田の戦い
そして8回のクライマックスとなったのが「上和田の戦い」でした。
<上和田の戦い>
家康側の上和田砦を本宗寺・勝鬘寺の一揆が攻撃して、救援に駆け付けた家康が銃撃された戦い。
二発弾丸が甲冑に当たったと史料に有ります。
二人の土屋長吉重治
そして「どうする家康」では、家康絶体絶命のピンチに、家康を裏切っていた土屋長吉重治が身を挺して家康を護って命を落とすという流れになっていました。
これは『徳川実紀』にあるエピソード(一揆側だったが、家康の危機に身を挺して家康を護った)がモデルですが、『寛政重修諸家譜』 には別の記載(一揆側ではなく、家康側で闘って命を落とす)もあり、戦死したのは同じですが、別人(甚助と長吉)との見方もあるようです。
- 家康側で戦に参加して戦死
- 一揆側だったが、家康の危機に思わず身を挺して家康を護った
の矛盾する二つのエピソードを繋げた創作でした。
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ネタバレコーナー
家康の宗教観はどうなったか?
戦国大名たちは原則的に信仰の自由を認めていました(勿論織田信長も)。「宗教・信仰」と「世俗権力」がすみ分けされていたわけです。宗教勢力が世俗権力に介入して、政治的に対立した時だけ弾圧していました。この当時の家康にそうしたモノへの理解が足りていなかった面はあります。しかし、家康は最高権力者になっても、「宗教・信仰」と「世俗権力」を棲み分け無い姿勢は変わりませんでした。寺院諸法度で宗教を「世俗権力」の統制下におきます。
「世俗権力」による統制で、宗教勢力は勢力争いをしなくなったが、信教の自由は大幅に制約された。(檀家制度)
自由にすると争いが起こるから、自由を制約して争いの無い世の中、平和を優先した
一揆軍強さのヒミツ
この時代は兵農分離がされていませんので、農民も戦力としてはさほど変わりません。また、一揆の中には領主に不満を持つ武士も含まれます。実際に加賀(石川県)では、守護大名を倒して、一揆が支配していました
兵農分離されていない時代なので、武士と農民に戦力差はあまりない