第5回はストーリー的には殆ど進みませんでしたので、登場キャラに関する解説をメインにします。
家康の異父弟たち
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家康の”家”は?
於大の方が、家康の継父にあたる久松長家と子供たちを連れて、岡崎城に来ました。そこで久松長家と於大の方の息子、即ち家康の異父弟について解説していきます
久松長家は、尾張の知多半島に勢力を持つ、領主でしたが、そちらの領土は、先妻の子(信俊)に託して、久松長家自身は、家康の与力となります。
ある事件が起こるまでは、良好でした。「どうする家康」では別の理由にするようですが、元康から家康に改名する時に、久松長家の名前から”家”の字の偏諱をとったという説もあるくらいです。
久松長家とは途中までは仲は悪くなかった
家康は神君として神扱いになりましたから、下の者からもらった文字だと都合が悪いから由来を隠していると言われています。
戦国時代だと、父親が違うので家督を争うライバルにはならないので、比較的安心できる存在かもしれません。織田信長も伊達政宗も同父弟の命を奪っていますし、今川義元は異母兄の玄広恵探の命を奪っています。
戦国時代は父親が同じだと家督争いの可能性があるので、兄弟でも気の許せない世情だった。家督争いの中で、織田信長と伊達政宗は弟の命を奪い、今川義元は異母兄の命を奪ってる。
秀吉の弟として有名な小一郎秀長も異父弟ですね。
三郎太郎:松平 康元
於大の方と久松長家の間には三人の男子がいますが、産まれた順にまずは松平康元です。
この人の特徴は子だくさんです。
男子は、家康の子供や孫たちの家臣になりました。駿河藩主徳川忠長、尾張藩徳川義直、紀州藩徳川頼宣などの家臣です。徳川宗家自体元々小さな豪族ですし、譜代の家来も多くないので、分家に与える家臣としていい存在だったんでしょうね。
女子は家康の養女となり、家臣や他家への政略結婚のコマになりました。嫁ぎ先は以下の通りです
- 岸和田藩岡部家初代藩主岡部長盛
- 伊勢長島藩初代藩主菅沼定仍
- 福島正則の養嗣子福島正之(関ヶ原の火種となる)
- 陸奥国弘前藩2代藩主津軽信枚
- 柳河藩第2代藩主田中忠政
- 遠江横須賀藩初代藩主大須賀忠政
- 丹波国亀山藩初代藩主菅沼定芳
- 長門国長府藩初代藩主毛利秀元
源三郎:松平勝俊
この人は松平家(徳川家)の『人質役』ですね。大変辛苦を味わい早逝します。史実では1563年12歳の頃に今川氏真の人質になった(今川が武田に攻撃される際に武田の人質に)というのが定説ですが、「どうする家康」では、今川との関係で人質を出すのは辻褄が合わないのでどうするのでしょう?
松平定勝
松平定勝自身は、伊勢桑名藩11万石の大名になります。また、息子たちからも複数大名がでます。但し、嫡男は大変不幸な最期を迎えます。
家康の痛恨事とも言える出来事で、これがあって定勝の他の息子たちは優遇された可能性が高いです。ネタバレコーナーで解説します。尚、定勝の子孫にはフリーアナウンサーの松平定知もいます。
<定勝の主な子供>
長女:松尾 | 徳川家康養女、服部正就正室 |
---|---|
長男:松平定吉 | 徳川家康の責任で不幸な最期を遂げる |
次男:松平定行 | 遠江国掛川藩主→伊勢国桑名藩主→伊予国松山藩初代藩主 定勝系久松松平家宗家2代目 |
三男:松平定綱 | 下総山川藩主→常陸下妻藩主→遠江掛川藩主→山城淀藩主→美濃大垣藩主→伊勢桑名藩主 定綱系久松松平家初代 |
次女:阿姫 | 徳川家康養女、山内忠義正室 |
四男:松平定実 | 伊勢長島2万石を辞退(こちらも家康と揉める) |
三女:紀為君 | 徳川家康養女、中川久盛正室 |
五男:松平定房 | 伊予国今治藩初代藩主 定房系久松松平家初代 |
六男:松平定政 | 三河国刈谷藩主 |
其れだけでなく、ネタバレコーナーで解説しますが、子供たちのエピソードは結構ドラマチックです。また、長女:松尾について、服部家の命脈を繋ぐのに大きな役割を果たしました
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本多正信
本多正信はイカサマ師なのか?
本多正信(松山ケンイチ)が登場しました。この時期の本多正信はどちらかというと三河武士的な猪武者ですが、謀臣のイメージが強いので、最初から謀臣の設定で行くようです
計略、はかりごとを得意とする家臣
主君の為に人を騙したり、陥れたりする役割の家臣ですね。その騙したり陥れる対象は、他家だけでなく、身内(御一門)や家臣団も対象になります。
本多正信は謀臣として有名。役割的に身内や同僚の家臣団も騙したり陥れたりするので、同僚の家臣団からは嫌われ、「イカサマ師」と呼ばれたりする
本多忠勝との関係
江戸時代の譜代大名は、家康の代になってから徳川家の家臣になった「なんちゃって譜代」が多いですが、『本多』は、安祥譜代と呼ばれる松平家(徳川家)のホンモノの譜代です。
松平家(徳川家)の譜代には古い順に安祥譜代、山中・岡崎譜代、駿河譜代がある。『本多』は、安祥譜代でホンモノの譜代(先祖代々の家臣)
本多忠勝は、本多氏の中でも宗家(本家)になります。本多忠勝の8代前にあたる本多助政の代の時に分かれた系統が本多正信の系統です。
三代目 助政
* ┏━━━┻━━┓
分 定通 定正
離 ┃ ┃
数 (6人) (5人)
代 ┃ ┃
後 本多忠勝 本多正信
遠縁とも言えない関係ですね。因みに本多忠真(波岡一喜)は、忠勝の叔父になりますので現在の間隔では親戚でしょうね
本佐録
そして本多正信と言えば『本佐録』の著者と言われています。
江戸時代初期の政治の要諦について書かれた書物。「百姓は財の余らぬように不足になきように治むる事、道なり」という文言が有名
しかし、書き方が他の著者に似ているという指摘もあり実際の著者はわかりません。が、本多正信自身の作にないにせよ、誰かがその考え方・教訓をまとめた作品とはいえるでしょう。
「日々の暮らしに困ると世情が不安になり、贅沢できるようになると風紀が乱れる。なので、何事もほどほどに」という意味ですね。これが変転したのは八代将軍の吉宗の代でしょうか。勘定奉行の神尾春央が「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と言い出して、苛斂誅求(税金をむごくきびしく取り立てること)を行いました。その時に曲解したのかもしれません。
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服部半蔵
伊賀モノがなぜ三河に?
そして服部半蔵の名前で有名な服部正成(山田孝之)が登場しました。自己肯定感の低い今風のキャラ設定でしたね。
服部正成の父親が、京で将軍に仕えていた時に、家康(元康)の祖父にスカウトされたのがキッカケです。元々伊賀でも服部家は下級だったようです。
服部正成の父親・初代服部半蔵(半三)保長/正種が家康(元康)の祖父・清康にスカウトされて、服部半蔵は徳川家(松平家)の家臣になった
服部半蔵は忍者か武士か
父親は伊賀出身で忍者だった可能性もありますが、服部正成自身は、伊賀の生まれでもありませんし、「鬼の半蔵」と呼ばれる槍の名手で武士です。
但し、後に伊賀同心と呼ばれる伊賀の忍者の指揮を任されますので、外から見ると本人も伊賀忍者に間違われやすいというのもあるでしょう。
服部家は伊賀の中でも高い地位では無かった。伊賀忍者たちからすると、服部家を下に見ていただけに服部半蔵の下に置かれるのはかなりの不満になった。
ネタバレコーナー
松平定勝と家康の悶着
定勝との揉め事
定勝及びその息子たちと、家康(元康)は色々揉め事があるのですが、キッカケは秀吉と家康の和議の条件でした。秀吉は人質として定勝を求めますが、於大の方が抵抗します。已む無く家康は自分の息子の秀康を人質に出す事にします。これが元で家康は定勝を憎むようになったという説もあります
松平定吉自害
定勝に対する家康の憎む気持ちが原因どうかは分かりませんが、家康が定勝の嫡男定吉に辛くあたって、定吉が自害するという事件がおこります
松平定実との確執
定勝の四男松平定実は、大坂の陣で真田幸村相手に奮戦しますが、些細な軍令違反を家康に咎められて、桑名で蟄居させられます。定実が真田幸村相手に命を賭して奮戦している事を知っている人物は、定実の功績を証言すると定実に手紙で伝えています(伊達政宗など6人の連名)。翌年には書院組頭の打診がありましたが、定実は辞退。その後も、大名(長島2万石)の打診を辞退しています。
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松平定政の幕政批判
定勝の子供で有名な人物として松平定政がいます。三河国刈谷藩主でしたが、諷誡書を幕府に提出して幕政を批判しました。家光時代の武断政治で改易が相次ぎ、街に浪人が溢れ武士の生活は困窮します。定政は、自らの資産を差し出すのでそれで困窮する武士たちの救済を訴えましたが、幕閣は「狂気の沙汰」として取り合わず、定政自身が改易となりました。由井正雪は、幕府の対応を「(定政の)忠義の志を欺く行為」と批判しています。しかし、この件と「慶安の変」が契機となり、やみくもに改易して浪人を増やす武断政治から、改易を減らし、浪人対策に力を入れた文治政治への移り変わりがありました。
服部半蔵家の末路
東京近郊の人には半蔵門で有名な服部半蔵ですが、実はその子どもの代でお家取り潰しになっています。伊賀同心に対するガバナンスが効かなかった事が原因です。しかし、色々紆余曲折があって松平定勝の三男松平定綱が、姉の松尾の子供にあたる服部半蔵の孫服部正辰(定綱の甥)を引き取って、藩主御一門扱いで面倒を見る事になります。
服部半蔵家を引き継いだのは、服部正成の次男、服部正重(松尾とは血縁無し)ですが、こちらも服部正辰の計らいで桑名藩に家老格で引き取られることになります。