独自の解釈による「泉親衡の乱」にも、驚かされましたが、和田合戦へと至る展開がアレとそっくりでした。
罠と罠
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仁田忠常の最期を援用
「泉親衡の乱」から、和田義盛への北条義時の度重なる挑発は、ほぼ史料通りでしたが、和田合戦に至る最期のトリガーが別の歴史上の事件とソックリでした。
仁田忠常の最期ですね
【史料上の仁田忠常の最期】
- 頼家に時政の討伐を命じられる
- 時政に招かれ慰労の酒宴に参加
- 二刻(=約四時間)経っても仁田忠常が帰らない事から、忠常の一族郎党が、「忠常が討たれた」早合点
- 勘違いした仁田忠常の一族郎党が御所や義時の館に攻め込み、騒ぎを聞いて慌てて駆け付けた仁田忠常も討たれる
以上は「吾妻鏡」に記載されている顛末で、『愚管抄』などではまた別の顛末が記載されています。しかし、いずれの史料も仁田忠常の最期は自害ではなく、御所で討たれたとなっています。
殺伐とした「鎌倉殿の13人」の中で、癒し枠だった仁田忠常と和田義盛。癒し枠同士でエピソードを援用したか?
大胆な解釈「泉親衡の乱」
泉親衡(いずみ ちかひら) は、現在の長野県上田市に1178年頃に泉公衡の子として生まれたと伝えられています。怪力の持ち主としておとぎ話のような伝承と共に伝えられているので、実像ははっきりしません。
泉親衡の父親は、泉公衡で清和源氏の血筋とされますが、十代以上さかのぼるので、わりとあやふやです
何とも言えませんね。「鎌倉殿の13人」の設定が「泉親衡=源仲章」という設定なのか、源仲章が泉親衡に成りすましたという設定なのか、その辺もはっきりしていませんでしたので
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中和田城は泉親衡の館?
横浜市泉区和泉町にある中和田城は、泉親衡の館跡とも言われています
中和田城が泉親衡の館跡という説も結構怪しかったりもします。明らかに後年の建築物が泉親衡が建築したと伝わっているモノもありますし。
”罠”を逆利用
北条義時は、こうした朝廷側(源仲章)の罠を逆利用して、かねてから機会を伺っていた「和田義盛」抹殺を実行に移します。
最も頼りになる者が最も恐ろしい
- 「無数の和田義盛」(98人と言われる)が御所に押し掛けた機会をとらえて、縛られた和田胤長を一族の面前に引き出す
- 胤長の屋敷(通例では同族の和田一族に引き渡される)を義時が没収
北条家の秘策「1勝1敗」
頼朝を1勝とする説(騙すのには失敗したが命は助かった)と、義高を1勝とする説(騙すのには成功したが命は落とした)
史料上は、源実朝が和解の斡旋をしたという記載はありますが、いずれも不調に終わっています
ここから冒頭でご紹介した、勘違いによる和田一族の暴発で「和田合戦」に流れていく展開です
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義盛、お前に罪はない
和田軍の陣容
和田軍の陣容ですが、決起した時は約300騎ほどの軍勢であったと伝えられています
和田一族は殆ど加わっていますが、それ以外のメンバーを見てみましょう
土肥 維平
土肥実平(阿南健治)の嫡孫で、土肥一族の当主的立場です
岡崎実忠
岡崎義実(たかお鷹)の嫡孫で、岡崎一族の当主的立場です
土屋義清
岡崎義実(たかお鷹)の息子で、母方の中村党(小田原の辺りが地盤)・土屋氏を継ぎます
梶原朝景
梶原景時(中村獅童)の弟です。
和田一族以外で、当初の主なメンツはこんなところでしょうか
和田軍最大戦力:横山党3000騎
横山党は八王子辺りに勢力を持つ一族で、鎌倉到着が一日遅れました。
それ以外にも西相模に勢力を持つ御家人たちが鎌倉を目指してきます。曾我氏・中村氏・二宮氏・河村氏・・・。これらの軍勢も和田軍に参加する気配を見せる・・・・
和田勢が幕府軍(北条方)を凌駕する軍勢に膨れ上がり、
北条義時絶体絶命のピンチ!
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『鎌倉殿』で大逆転
そんな大ピンチの北条義時を救ったのが鎌倉殿の御教書(みぎょうしょ)です。
御教書(みぎょうしょ)とは、官位が三位以上の人の家来が主の意思を奉じて発給した古文書です。
15歳で従四位下
16歳で従四位上
17歳で正四位下
18歳で従三位
20歳で正三位
21歳で従二位
22歳で正二位
和田合戦勃発
まあ、将軍ですからね。頼家も最後は正二位でした
和田義盛の誤算
和田合戦では義盛にも勝つチャンスは二度あったと考えられています。
<義盛一度目のチャンス>
横山党の到着を待ってから開戦
先に攻められるかもしれない、というリスクを考えて先手を取ったわけですが、戦力不足もあり、そこで鎌倉殿を確保できなかったのが致命傷となりました。
拙速が裏目
<義盛二度目のチャンス>
横山党到着後、御教書(みぎょうしょ)が出るまでの期間に攻めなかった
合戦二日目、横山党が到着して、御教書(みぎょうしょ)が出る前に攻撃していたら、遅れて鎌倉に到着した西相模の御家人たちの離反を防げてた考えられます。
慎重が裏目
一日目は拙速、二日目は機を逸した
和田一族の滅亡
「和田合戦」の結果、和田一族はほぼ滅亡します
和田義盛の嫡孫朝盛は生き残ります。朝盛の嫡男佐久間家盛は承久の乱の恩賞で尾張国御器所を賜り、これが戦国時代の織田家の宿老佐久間家に繋がります
盛重、信盛、盛政・・・。
また、土肥一族、岡崎一族もほぼ相模での勢力を失います
相模・武蔵で北条に歯向かうものはいなくなる
義時の誤算
和田義盛を滅ぼして、侍所別当を兼ねるようになった北条義時は同時に南関東もほぼ勢力圏に収めて周囲からは目的を果たした、と見られます
最も信頼する御家人である和田義盛を失った実朝。彼は己の無力を呪い、強くあろうとする。それには大きな後ろ盾が必要だった。
順風満帆に見える北条義時。しかし、彼は鎌倉に迫る最大の危機に気づいている。それは多くの犠牲を払って成立させた筈の鎌倉幕府の核心、鎌倉殿が京の朝廷に取り込まれるという武家政権の土台を揺るがす危機だった。
「鎌倉殿の13人」は『吾妻鏡』が原作と言われていますが、『吾妻鏡』に記載がない、或いは曲筆と考えられる肝要な部分は『愚管抄』が採用されることが多いので、そこの前提知識を予め知っておくと、より楽しめると思います。