15回「足固めの儀式」は、史実にある上総広常粛清事件を用いて、頼朝の非情さ、マキャベリストぶりを視聴者に印象付けた見事なエピソードでした。
今回の16回は、奇跡的とも言える史上有名な義経の天才的な軍略について、三谷幸喜流の謎解きが為されます。
北条時政が鎌倉に呼び戻される
木曽義仲追討軍の出陣
宇治川の戦い、粟津の戦い
一の谷の戦い
北条時政の復帰
御家人と頼朝を結ぶもの
頼朝は、産まれた義時の嫡男に「金剛」という名を付けるとともに、伊豆に引き上げた北条時政を呼び戻す。
鎌倉殿と御家人の間をつなぐ”かすがい”の役割を期待
上総広常亡き後の、権力の空白を利用して鎌倉政権中枢でのポジションを確保する
比企能員と北条時政
北条時政も比企能員と同じく、「源氏に取り入る」事を目標にする。両氏は競合関係となり、先々相容れなくなる
木曽義仲追討軍出陣!
鎌倉を足固めした頼朝は、遂に大軍を遠征させる事に成功する。「木曽義仲追討軍」である。総大将は源範頼、軍奉行は梶原景時、義時も追討軍に加わる。
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宇治川の戦い
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木曽義仲の現況
半年前に数万騎で入洛した義仲軍でしたが、後白河法皇との決裂や、水島の戦いでの敗戦が影響して、宇治川に鎌倉軍を迎え撃つ時点では、従う軍勢は千騎ほどだったと伝えられています。
- 1183年7月入洛義仲が数万騎を率いて入洛
- 1183年8~9月皇位継承問題北陸宮の即位を主張して後白河法皇と対立する
- 1183年10月寿永二年十月宣旨朝廷が頼朝による東国支配権を公認
- 1183年閏10月水島の戦い義仲軍、平氏軍に惨敗。
- 1183年11月法住寺合戦源義経軍が布和の関に到着。追い詰められた義仲は、後白河法皇が籠る法住寺殿を襲撃。数にまさる法皇側の軍勢に圧勝する。後白河法皇を幽閉
- 1183年12月頼朝追討源頼朝追討の院庁下文を発給させる
義経の偽計その1:ニセ情報
義仲は軍勢の少なさから戦を避けて、後白河法皇らを奉じて北陸へ逃走するつもりでいたが、鎌倉側は、飢饉によって大軍を動員できずに義経の兵も千騎ほどという情報が入ってきたため、北陸行を中止して迎え撃つ判断をする
義経の策によりまんまとはまり、鎌倉側が圧倒的に優位な戦場に誘い出される義仲
義経の偽計その2:宇治川の先陣争い
義経軍の多さに騙された事を悟った義仲は、鎌倉軍の行軍を妨害するために橋を落として、戦線を離脱しようとするが、ここでも義経の偽計の策が出る。
史上名高い、佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」。これが木曽義仲の注意を惹きつける策であった。木曽義仲軍が先陣争いに気を取られているうちに畠山重忠など鎌倉軍が川を渡る。木曽義仲軍は壊滅的な打撃を受ける。
その後、粟津方面に逃亡するも待ち構えていた源範頼軍に討ちとられる。
一ノ谷の戦い
ⒸCopyright NHK
義経の偽計その3:ニセの和議
西国を流浪していた平家ですが、この時点では瀬戸内海掌握。九州、四国、中国地方を中心に数万の軍勢を動員できるまでに立て直していて、福原(現在の神戸)に軍勢を進めて京の奪還を視野に入れていた。
福原は平家が本拠にしていた土地であり、本来なら地の利は平家にある。この不利な状況を打ち破る奇策が、ニセの和議である。義経は後白河法皇に平家に対して和議を命じるように要請する。これは騙し討ちである。
源義経は国民的人気者なので、従来、こういったネガティブな情報は無視されがちですが、三谷幸喜は容赦なく拾い上げていますね。
義経の軍略
義経は梶原景時の策を「誰にでも思いつく策」と一蹴して、寧ろ三草山に夜討ちを掛けて、「山からも攻められる」と平家に思わせ軍を分散させる策を提案する。そのうえで、相手の予想外の場所から攻めるという策を披露する。
梶原景時は内心の口惜しさを押し殺して、義経の策を肯定する。
嫉妬はあっても全体の利を考えれば義経の策を採用するのがいい
天に選ばれた人間は二人はいらない!(by梶原景時)
(出典:wikipedia「一ノ谷の戦い」)
吾妻鏡では、畠山重忠は源範頼軍に加わっていますが、ドラマでは義経軍に加わっている事になっています。
夢野口を落としたのは、安田義定(甲斐源氏)と言う説と、多田行綱(摂津源氏)という二つの説があります。
信長で有名な敦盛の最期も詳しく描かれます
人間五十年、下天のうちを比べれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか (幸若舞「敦盛」)
次回以降の展望
源氏の粛清
一条忠頼(甲斐源氏)、源義経、多田行綱(摂津源氏)、安田義定(甲斐源氏)、源範頼・・・。
源義高
大姫が短刀を自分に突きつけて、義高の命乞いをする。頼朝の判断は如何に?!
そして、より悲劇的な最期を迎える藤内光澄。北条義時の更なる試練となる。