注目は「北条義時(小四郎)の最期がどのように描かれるか」でしたが、もう一つ注目ポイントが有ったのでまずはそちらから
『鎌倉殿の13人』の本当の意味
スポンサーリンク
ダブル・ミーニング
まずはタイトルの「鎌倉殿の13人」がダブルミーニングになっていた、と言う事です。
以下が最終回で明かされた、本当の意味での作品タイトル『鎌倉殿の13人』の13人でした
- 梶原景時
- 阿野全成
- 比企能員
- 仁田忠常
- 源頼家
- 畠山重忠
- 稲毛重成
- 平賀朝雅
- 和田義盛
- 源実朝
- 公暁
- 源仲章
- 阿野時元
源頼朝が亡くなった後、その死に鎌倉の権力争いが関わっている人物ですね。
仁田忠常は源頼家に追い詰められたとも言えなくもない。
もう一つの13人:トウ編
実は、トウについては、当初悲惨な最期が予定されていたとの事です。しかし、三谷幸喜が「トウは希望にしたい」という心境の変化があり、最終回のようなラストに変更されました
未来への希望のあるラストに変更されたトウ。ここでも鎌倉殿の13人が援用された
のえ(伊賀の方)と三浦義村の共謀
そして、北条義時(小四郎)がのえ(伊賀の方)に毒を盛られたという、明月記の記述は採用されて、のえ(伊賀の方)と三浦義村の共謀であるという設定になりました
そして46話の考察で指摘した通り、隠ぺいされたという設定ですね
陰謀は確かにあり、その根は(神輿になりそうな人物=一条実雅)は断つ必要があるが、義時の暗殺などが表沙汰になると、未だ創成期で安定していない鎌倉幕府の権威が揺らぎ困るので、謀反を無かったことにした・・・というのがしっくりくる解釈でしょうか。
但し、毒殺される前に毒を盛られた事が発覚して、隠ぺいされたという設定でした
スポンサーリンク
北条義時(小四郎)暗殺を企てた動機
北条政村に北条執権家を継がせる
自らが北条義時(小四郎)になり替わって執権になる
同床異夢って感じですね。三浦義村が執権になったら、北条政村が北条家を継いでもあまりのえ(伊賀の方)には旨味が無いですね。むしろ、北条政村はこの後、鎌倉幕府で二番目に偉い連署(北条時房が初代)になって、ワンポイントですが執権にもなっています。のえ(伊賀の方)の動機には、義時が自分を見てくれていなかったという恨みの方が大きいのかもしれません。
北条泰時の時代に、個人に権力が集中しないように歯止め役として、執権の次位に置かれた役職です。幕府の公文書に執権と連名で署名したために”連署”と呼ばれます
一時期、北条政子の発案とされていましたが、後年の研究で、政子死後に設立された役職であることが、判明しています
キノコ
最終回でいくつかの登場人物のウソが回収されていますが、三浦義村が、北条義時(小四郎)についた嘘、「女子はキノコが好き」という話もウソであることが、北条義時(小四郎)に明かされました
承久の乱と徳川家康
歴史に学ぶ家康
番組冒頭、次の大河ドラマの主役である徳川家康が、「吾妻鏡」を読んでいる演出がありました。
家康は歴史に学んで勝者になったという事が強調されているのかもしれません
出陣しなかった後鳥羽上皇
一方、後鳥羽上皇は出陣を請われ、本人もその気になりましたが、思い止まり、これが敗因として描かれました。実際の歴史で「もし後鳥羽上皇が出陣していたら」結果が変わっていたかどうかは議論の分かれるところです
そうですね。「もし豊臣秀頼が出陣していたら」というのも面白い「歴史IF」ですが、豊臣方が徳川家康のように「歴史に学んでいたら」敗者にはならなかったのかもわかりませんね
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
後鳥羽上皇は顕徳上皇?
後鳥羽上皇は隠岐島に流されて18年後に崩御します。その時点での諡号は「顕徳院」でした。
諸説ありますが、一番有力なのは『怨霊になった』からだと言われています。”徳”の字がそれを意味するという説もあります(崇徳上皇など)
平家物語の時に考察しましたが、後白河法皇は幽閉されたぐらいでギャーギャー騒いで、そのせいで軍事貴族である平家が滅んで、地方の武士(北条氏)が天下を獲って、結局自分の後継者は”島流し”にされてしまったわけですね。ただ後鳥羽上皇のこの言葉もある意味現実になりますね
幾たび生まれ変わっても呪ってやるわ
三浦義村や北条時房が後鳥羽上皇に呪い殺されたという説の他、
後鳥羽→土御門→後嵯峨→亀山→後宇多→後醍醐
と続き後醍醐が北条氏を滅ぼします
平六(三浦義村)は、味方するフリをして後鳥羽上皇に挙兵させておきながら、味方しなかったからでしょう。「三浦の犬は友をも食らう」というのは歴史上有名な言葉ですが、帝すら裏切ったわけです。
トキューサ(北条時房)についても、三谷脚本では納得のいく伏線が張られました。不敬を働いたところを後鳥羽上皇に見逃されています。その恩を返さなかった報いと言う所でしょう
様々なところで報いの時がある
北条義時(小四郎)の最期
北条義時(小四郎)の最期ですが、のえ(伊賀の方)と三浦義村の共謀で盛られた毒により身体が弱っていたところ、回復するための薬を北条政子が捨てて飲まさなかった事が原因で亡くなる事になりました
北条義時(小四郎)は先帝が「災いの種」になると考えて、力業で排除しようとして、止められたという顛末ですね。因みに先帝は4歳でした。
いいえ。皇位を廃され、九条家に預けられました。丁度、四代将軍の三寅とは従弟同士になるので、九条家に預けられたのですね。また、当時の朝廷の人たちは、三寅の従弟にあたる4歳の天皇を廃位にするとは考えていなかったようです。践祚されてから二か月余りで皇位を廃され、史上最も在位期間が短い天皇です。ちなみに17歳で崩御。この後も、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の血筋を嫌いますが、上手く行かず、後嵯峨天皇(後鳥羽上皇の孫)が誕生して、その子孫が、【持明院統】【大覚寺統】として皇位を引き継ぐだけでなく、鎌倉幕府六代目以降の将軍になります。
それよりは、北条義時(小四郎)による幼い先帝謀殺を止める為って方が、余韻があって綺麗でしたね
泰時が小四郎に似ている意味
北条義時(小四郎)は、泰時を「キレイごと」で政を行おうとしている・それでは上手く行かない、と批判しましたが、結局それでうまく(少なくとも泰時存命中は)いきました。勿論、謀略らしきものはありました(時房の息子たちを仲違いさせた)が、謀殺は無かったです。
産まれた時が違えば、小四郎もダークにならずに済んだのではという示唆だと思われます