終盤、残り10話となって、一週間お休みです。終盤の注目ポイントである「和田合戦」、「実朝暗殺」、「承久の乱と義時の死」について見どころを解説します。
北条時政とりくのその後
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病死した北条時政
北条時政は約10年後の1215年1月6日に伊豆で病死しています。享年78歳でした。
無いですね。10年後ですし、当時の78歳なら寿命ではないでしょうか。
北条家の祭祀では、義時を初代として、時政は無視されます。また、泰時も頼朝・政子・義時の仏事は行いましたが、時政の仏事は行いませんでした
35話の考察で時政の13回忌法要を取り上げました
りく(宮沢りえ)のその後
りく(宮沢りえ)に対する藤原定家の批判はマトモに受けない方が良いでしょう。りく(宮沢りえ)の孫娘が藤原定家の息子に嫁いでいます。舅や姑が息子の嫁の実家を悪く言う事は古今よくある事ですからね
はっきりしません。史料に出てくるのは13回忌の法要が最後かもしれません。その後、藤原定家の息子に嫁いだ、りく(宮沢りえ)の孫娘が49日法要を営んだ話が史料に出てきます。仮にこれがりく(宮沢りえ)を対象にした法要なら、1229年4月22日が没日となります
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鎌倉殿の13人:終盤の見どころ
それぞれのイベントの概要と見どころを確認しましょう
和田合戦のアウトライン
1213年執権北条義時を排除しようと御家人の泉親衡が頼家の遺児千寿丸を擁立して反乱を企てる(泉親衡の乱)。この企ては事前に漏れて、参加していたものが捕まるがその中に和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長がいた。義盛は赦免を願い出るが、これを和田義盛を挑発する好機とみた北条義時が胤長を赦さず挑発を重ね遂に和田義盛に謀反を起こさせる事に成功する
泉親衡とは何者なのか
泉親衡は出自もはっきりせず、また乱後の行く末も不明です。そして、政権中枢では殆ど無名の泉親衡が鎌倉で300人以上の武士を集めた事から、さまざまな説がでています
<「泉親衡の乱」黒幕に関する諸説>
- 義時が黒幕で和田一族を滅ぼす目的で義盛の息子たちを巻き込んだとする説
- 義盛や義盛の子や孫の和田一族が黒幕で北条義時打倒を目論んだとする説
上総介と和田義盛
そして、「鎌倉殿の13人」では度々、和田義盛が上総広常のマネをしている描写がありました。実は、和田義盛は上総介の官職を望むんですね。これを実朝は認めようとしますが、政子が諫めて取りやめになったことが、史料にあります
和田義盛を上総広常になぞらえて処断しようとするのは、北条義時か、大江広元か
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源実朝暗殺事件の背景
<善哉が出家して公暁になる>
1206年に実朝の猶子となった7歳の善哉(公暁)。1211年、12歳の時に鶴岡八幡宮の別当・定暁のもとで出家して僧侶となる。この時、将来、鶴岡八幡宮の別当になることが決められて、公暁の法名を授けられる。
そして、園城寺にて公胤僧正の門弟として修行してする為、京にのぼる。
別当(べっとう)と言うのは、政所別当や侍所別当同様に組織のトップと言う意味です。
<公暁が鎌倉で鶴岡八幡宮の別当に>
1217年、鶴岡八幡宮の3代別当・定暁が死去。18歳の公暁が鎌倉に戻り鶴岡八幡宮の別当に就任する。しかし、就任したその日から「一千日の参籠」を開始する
大願成就を願い寺に籠って1000日連続で祈る事です。公暁は髪の毛もおろさなかったといわれています。つまり公暁は鶴岡八幡宮の別当の役割を放棄したわけです。
<後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王が源実朝の後継者に>
1218年北条政子は熊野を参詣したあと京にて藤原兼子(シルビアグラブ)と会談する。後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を源実朝の後継者として迎える相談がなされたとされる。またこの年、源実朝は武士としては初めて右大臣に昇格した。実朝のあまりに早い昇進に鎌倉幕府中枢の懸念が高まる
公暁は、この動きに反発して「一千日の参籠」を始めたと考えられる(自分が次代の鎌倉殿になりたいため)
鎌倉殿が朝廷側に取り込まれるのではないか、という不安が鎌倉幕府中枢で広がりました。
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実朝暗殺の真相は?
実朝暗殺の実行犯は公暁ですが、黒幕がいたのではないか?という説は歴史学者、文学者の間で広く唱えられています。黒幕候補は主なものだけで以下の通りです
- 北条義時(目的:源氏の討滅)
- 三浦義村(目的:北条氏打倒)
- 御家人の総意(目的:武家政権を護る)
- 朝廷(目的:宮将軍を早期実現で鎌倉を傀儡政権に)
そして、黒幕などいないとする公暁単独犯説も多くの支持を集めています。①の義時黒幕説は、少々古い説ですが、実朝が京に傾倒していた事から、義時にも動機があり、未だに多くの支持があります。(源氏はそもそも摂関家の番犬であり、これがトップにいる限り本当の意味での坂東武者の世にはならない、という考え方)。その証拠に、この事件後、義時は頼朝の血筋を討滅します。
三浦義村黒幕説は、永井路子が唱えた説で、学者の支持も相当数ありますね。三浦義村は公暁の乳母夫であり、公暁が鎌倉殿になれば、三浦が北条にとって代われる。動機は十分ですし、公暁を操る事が出来るのも三浦義村です。公暁が「一千日の参籠」している時に側に居る事が出来るのは義村の息子の駒若丸(後の三浦光村)だったからです。
④は近年の研究で、実朝と後鳥羽上皇の間が微妙になっていたのではないか、と見られることから出た説です。③は実朝の朝廷への追随を不安視する鎌倉御家人の心情を重視した考え方です
標的は北条義時か源仲章か
実朝暗殺時には源仲章も殺害されています。これも事件の真相を推理する際のポイントになります。
公暁のターゲットは果たして北条義時か、源仲章か
暗殺直前に太刀持ちの役割が北条義時から源仲章に代わった
これも2説あります
- 義時の体調が悪くなって源仲章に代わってもらった(吾妻鏡)
- 直前に実朝の命令で源仲章に代わった(愚管抄)
②の場合は、こういう解釈が出来ます。実朝が義時の役目を源仲章に代えたとしたら、鎌倉幕府における執権の役割を義時から源仲章に代える意志を示したともいえる。しかし、歴史はそれを許さなかった・・・。
承久の乱と義時の死亡
そしてラストが承久の乱と義時の死亡です
日本流のある種の革命ですね
北条義時暗殺説については、34話で詳しく解説しています
掻い摘んで言えば、のえが権力奪取を目論んで、三浦義村を味方に引き入れて、義時の暗殺と泰時の排斥を企てたってことね。(伊賀氏の変)
義時は毒殺か病死か
ドラマの落としどころとしては、病気も示唆して、のえ&三浦義村による毒殺の可能性も示して、結論は視聴者の想像に任せるという形もありそう
そして、年末か、正月に解決編を放送するとか